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藍の蜂

夜の入り口で、藍が目の前をよぎった。ざらざらと背すじをざわめかせる羽音。ぶ、ぶ、自分だけが知る、濃紺の蜂。帰り道に夜を連れてくる細い紐は、アイツ自身には見えないようだった。糸がその胸に仕舞われるさまを見ていれば、「なに、みてるの」と眉根が寄る。
「べつに」
言ったところで、信じないだろう。自分が夜をちらつかせているなど。アイツの心臓の真上からはまだ蜂の羽が半分見えていて、ぶ、ぶ、と鼓動のように音が聞こえる。溺れて、もがいているような音だ。

「……教えてよ」

太陽が沈み、あたりは暗くなっていく。歩道の上、二人ぶんの自転車を押す影が消えていって、けれど後輪のカラカラいう音は変わらなかった。ぶん、とふたたび藍色がこちらに向かって飛び出して、目の前を一周した。うつくしい色と、どこか不快な音。まるで、剥き出しになった、ひとひとりぶんのこころ。ぶ、ぶ。教えてほしいと言われたところで、そんなのこっちだって、
「わかんねぇ」
ぶ、ぶ、蜂はアイツの心臓に戻っていく。「けち」こぼれる言葉には仕舞われていないトゲがあって、だけどたぶん、藍色の蜂のものではなくて、違う色をしていた。「ならいいし」別れ道の交差点に差し掛かって、アイツは自転車に跨った。ふわふわと風に揺れる髪。その一房を手にとって梳いた。柔い手ざわりには、不快さなんてまるでない。だけれど、指をすり抜けたそれは、一瞬だけきらめいて、すぐに夜に溶けていった。

「……暗くなる。気をつけろよ」
「ん、おつかれ」

マンションの影に、自転車が消えていく。

もし仮に、このままアイツを追いかけて、もし仮に蜂を素手で捕まえたとして、刺されるのだろうか。想像するのもすこし怖いけど、知りたかった。アイツが連れてくる夜の痛みを、知りたいと思った。そうして、夜に取り込まれてしまうのだとしても。その先が真っ暗闇だとしても。

ぶ、ぶ。

だけど俺はまだ、その覚悟ができていない。
「ばいばい」
濃紺が、アイツを拐ってゆく。

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