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優しい時間

就職氷河期で、しかも9月に卒業した私は、大学を出てから派遣社員になった。
何年か仕事して貯金したらどこかに留学したいとぼんやり思っていたので、特に仕事内容にこだわりはなかったが、派遣されたのはそこそこ大手の旅行会社の支店の営業課で、私はそこで営業アシスタントとして社会人生活をスタートさせた。

募集もののツアーやインセンティブ旅行、社員旅行など大型の団体旅行を営業担当が取ってくると、集客し、手配し、添乗して、最後に精算して終える。ツアーの出発日が近づくとどんどん忙しくなって、残業や休日出勤もしょっちゅうだったけど、初めから終わりまでひとつのツアーに関わることができるという仕事のスタイルが、私はとても好きだった。

会社には同年代の人たちが多く、みんなとても仲が良かった。派遣だからと差別されることも区別されることもなく、今思えば上下関係も比較的風通しが良くて、とてもいい社風だった。

仕事帰りに同僚と飲みに行く時は、いつも決まって同じ居酒屋で、たいてい仕事が終わった者から先に行って席を確保して、残業を終えた順に合流していった。私はほとんどいつも遅れて参加したが、席に着いたらすぐ誰かが

「取りあえず生でいいよね?」

と半ば強制的に注文するので、一杯目は必ずビールだった。先輩たちみたいにきりなく何杯も何杯も飲めるようにはついにならなかったが、最初の一杯はいつもとても美味しかった。

私が行くまでにもう何度もやっているのに、
うぃーとか、おーとか、何とも言えない音頭で乾杯する。そして私の後に誰かが来ても、また同じようにその人に強制的にビールを頼んでみんなで乾杯する。

一口目がやっぱり一番美味しい。

「あーお腹空いた」

と言って何かをつまんで、ビールをもう一口飲んだところで、私はようやく一息つく。

やがて誰かがぽつりと、昼間にお客さんに怒鳴られたとか、今度のツアーの手配にてこずっているとかいう話を始める。聞いている方は、必要以上に慰めたり励ましたりせず、たいていただうんうんと頷いたり、笑って

「キツイなあ」

「オレもそうそうこの前…」

なんて言い出したりして、みんなそうして少しずつ今日一日中背負ってきた重い荷物を下ろしていく。明日また、みんなその荷物を背負って頑張らなきゃいけない。ゆるい乾杯を何度も繰り返してお疲れと言い合うことは、今日も一日頑張った仲間と、お互い黙って寄り添って、静かに労うことと同じだった。

どんな仕事だって、時には理不尽なことに出くわすし、うまくいかないことだってある。それに、やってみて初めて知ったことだけれど、何事もなくスムーズに終わるツアーの方が、圧倒的に少ないのだ。だから時々こうして集まって、ビールを飲んで笑い合う優しい時間が、とても愛おしかった。

そうして何年か働いてから、当初の目標通り私はその仕事を辞めた。カナダに短期留学してから一度帰国し、今度はワーキングホリデーでまたすぐ出ていった。すぐに旅行の仕事が見つかり、一年の滞在予定が、結局永住権まで取ることになって、私はもうあの頃の仲間たちに会うことはなくなってしまったし、旅行の仕事も結局色々な事情で辞めてしまったけれど、まだたくさんの仲間たちが旅行業界には残っている。

彼らは一様に今、相当の打撃を受けているはずだ。実際、カナダの元同僚たちはほぼ全員職を失ってしまった。

あの優しい時間を一緒に過ごした仲間たちはどうしているだろう。まだ旅行の仕事を続けられているだろうか。一日の終わりにビールを飲んで、一息ついて、

「まいったなあ」

と呟くのを、側で笑いながら聞いてくれる人たちがいるだろうか。

世界が一変して、社会のあり方も、仕事のあり方も、旅行のあり方も変わっていく。どんな風に変わったとしても、理不尽なことに出くわしたり、うまくいかない時は必ずやってくる。これから私たちはそれをどうやり過ごしていくのだろう。あの優しい時間を、オンラインでも見つけていけるのだろうか。

本当は、あの狭いテーブルで肩が触れ合いながらビールを飲めないのは、何だか味気ない気もするけど、もしお互いの気持ちに寄り添って、背負っている荷物を下ろすのに手を貸しあえるなら、どんな形でも構わないから、いつかまたゆるく乾杯しよう。

「いやいや大変だったよ」

「いやーこっちも色々」

なんて笑い合いながら。

そうしたらやっと一息ついて、お互い明日もまた新しい世界の中で、何とか折り合いをつけて、前に進んで行けるのかも知れない。

#また乾杯しよう

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