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愛は世界を救ってほしい

世の中に、ごく身近な意味での「呪い」が浸透したのはこの数年のようにおもう。

周囲にジェンダーについて色濃い認識をしているひとが少なくて、「女らしさ」のような(いわゆる)呪い(のようなもの)には触れることなくここまで生きてきたのだけど、周囲からかけられずともわたしは勝手に、自分自身を呪いでがんじがらめにしてきたみたいだ。

ちょっと足りない濁点がはずかしいけれど、ようやく言語化できた記念なので消さず直さず時折眺めている。

わたしはほかのひとのいいとこみっけがずば抜けて得意で、それは長所であり、一方で自分をくるしめている部分でもある。「いいなあ、素敵だなあ」の気持ちをポジティブに昇華することがとてもむずかしくて、ひとのすてきな部分をみつけるたび自分がどんどんおちていく。それは相手が自分と似た環境・ステータスであればあるほど顕著で、例えば職場の同い年の仕事仲間がすごいんだぞ、なんてことになると相当つらい。

たまにいつもと違う部署で仕事をしていると、不定期に出勤してあれこれ仕事をさばきかっこよく退勤する方がいる。今日もいつもどおりかっこよく仕事をさばき、さらっと退勤していった。見た感じ同い年くらいなのに博識で、立ち振舞いが上手で、すごいなあ何者なんだろう、何歳なんだろう、そう思って帰り道、仕事仲間に聞いてみた。

「○○さんはえ〜と、40なんさいだったかなあ」

!!!

予想外の年上具合(見た目はとっても若い。教えてくれた仕事仲間も最初は30代かと思っていたとのこと)に、わたしは勝手に、壮大に、かなりとっても救われた。同い年の仕事仲間がすごいんだぞ、のパターンじゃなかった!よかった!と同時に、「同じ年月を生きてきたひとと自分の能力の差」に縛られているじぶんを改めて認識して、やれやれ。


自己の認識について、こころの中にぼんやり存在し続けている言葉がある。だれかの名言とかではなくて、これまでの人生でかけられた言葉のあつまり。

「他のひとと比べる必要なんてない。あなたはあなただし、このひとのここがいいなと思ったらそのうちそういうことができるようになったらいい(、でもならなくてもいい)」


「他のひとと比べる必要なんてない。あなたはあなただし」

昔から母親によーく言われていて身体に染み込んでいることば。(それでもこんなに自己肯定感の低い人間になってしまった不思議)

「このひとのここがいいなと思ったらそのうちそういうことができるようになったらいい」

大人になってからも人と比べては落ち込むわたしに母親が時折かけてくれたことば。

「(、でもならなくてもいい)」

29歳、いい加減くよくよモードも煮詰まりながら、相変わらずくよくよしてしまうわたしに友人やインターネットがかけてくれたことば。いまはこのことばにとにかくとにかく救われている。

おなじ年月を歩んできたはずのひとができることが、わたしにはぜんぜんじょうずにできない。できたい。できない!できるようになるためにどうするのか、むずかしいことを色々考えるけど考えすぎてだんだんわからなくなる!もういやだー社会ー人生ー!とだんだん語彙を失いながら悲鳴をあげる日々に、「できるように、ならなくてもいい」はものすごい救いで希望の光だ。でもその認識は逃げや周囲への迷惑と紙一重なんだという気持ちはずっとあって、だからその救いに全力で縋るのはちがうかなと思うけれど、できないことがあんまりにもつらくてかなしくてどうしたらいいかわからなくなってしまったら、自分がこれから明るくげんきに生きるために「できるようになること」を諦めることは間違いじゃないって、そういう選択肢もいちおうあるよねと思っている。いちおうね。

ほんとうは、諦めるとか諦めないとかそういうことじゃなくって、「ありのままのじぶんがすべて、それでいいんだよ」と全部ひっくるめて抱きしめてあげる、ただそれができればいいんじゃないかなとも思う。だけど、たったそれだけが、どうしてこんなにこんがらがるんだろう。愛が大事、愛が大事って、身近な人であればあるほどうるさいくらいに盛り上がれるのに、自分への愛がいちばんおざなりになっているのかもしれないな。29歳下半期の目標、自分をあいすることにしてみようかなあ。できるとかできないとかのごちゃごちゃな世界から、なにかすこしでも変わりたい。


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