崇徳院

崇徳院

せをはやみ いわにせかるる たきがわの われてもすゑに あわんとぞおもふ

崇徳院

元永2年~長寛2年。日本の第75代天皇。崇徳院の父親は、『鳥羽天皇』といわれています。母親は『藤原璋子(待賢門院)』。鳥羽天皇は幼い崇徳院(顕仁親王)を『叔父子』と呼んで忌み嫌っていました。
『叔父子』つまり、叔父なのに我が子という意味です。鳥羽天皇は、崇徳院(顕仁親王)のことを自分の祖父である白河天皇と藤原璋子(待賢門院)のこどもだと信じていたと言われていたといわれています。(この件について話し始めると、それだけで1記事になっちゃうのでカッツアイ!)

現代語訳

川の瀬となるところは流れが速く、岩にせき止められたその流れは二つに分けられてしまう。しかし、急流は二つに分けられたとしてもまた一つになる。私もあの人と、いつかきっと一つになりたいと願っている。

ナンチャッテ文法解説

:川の浅いところ(浅瀬とかいうでしょ)。
:間投助詞(かんとうじょし)の「を」。間投助詞は、和歌を詠むときとかに、ある単語の下に入れて、言葉に勢いをつけたり、調子を整えたり、詠嘆の意味を添えたりする助詞のこと。
:ク活用の形容詞「早し」の語幹(語尾が活用などで変化する言葉の変化しない(と見なされる)部分)
:原因や理由を表す接尾語。(*1)
:そのまんま、名詞の「岩」
:格助詞「に」
せか:カ変四段活用動詞「せく(堰く/塞く)」の未然形。せき止める。妨げるという意味。
るる:受け身の助動詞「る」の連体形
滝川:滝のように勢いよく流れる川。つまり名詞
:連用格(比喩を表す)の格助詞。和歌では特に序詞(最初の5・7・5部分)を導く言葉。「~のように」
割れ:ラ行下二段活用動詞「割る」の連用形
:接続助詞
:係助詞
:名詞「行く末」の意味。将来とかそういう。
:格助詞
あは:ハ行四段活用動詞「あふ(う)」の未然形。
:意思を表す助動詞「む」の終止形。動詞の未然形について「~しよう」っていう意味になります。
:格助詞
:強調の意味を持つ係助詞(係助詞「ぞ」のあとは必ず連体形で終わるよ!係り結びだよ!本居宣長(*2)だよ!)
思ふ:ハ行四段活用動詞「おもふ(う)」の連体形。

(*1)
「を・み構文」:名詞「A」+間投助詞の「を」+形容詞の語幹「B」+原因や理由を表す接尾語「み」=「AがBなので」という、原因や理由を表す意味で使われます。和歌によく出てくる文法。
(*2)
係り結びと言えば本居宣長。これ基本。係り結びに文句があるやつは本居宣長呼んでこい。ぞ・なむ・や・か=連体形。こそ=已然形。

徒然

ちょっとまって、文法についてあれこれやってたら長くなったんだけど。ちょっと、どういうこと。私文法の人じゃないんだけど???(むしろ文法大っ嫌い)
閑話休題。この歌が詠まれた背景は定かではありません。別れざるを得なかった恋人にあてて詠んだ歌だとも、政権争いに負けて遠流された恨みを歌った歌だとも、平清盛に向けて詠んだ歌だとも。様々な解釈がされています。
というのも、この歌は崇徳院自身が命じて作らせた勅撰和歌集『久安百首』あるいは『詞花和歌集』恋の部に収められているのですが、詞書(その歌が詠まれた背景とかを記す短い文章のことで、和歌の前に書かれるもの)には「題不知(だいしらず)」とあるんです。だから、崇徳院が詠んだことは確かなんですが、いつ、どういう経緯で読まれたものかわからないんですよ。
記録に残るような和歌は、たいてい、歌会なんかで詠まれるものなんですが(あとは誰それに送った手紙とか、文学作品とか)、この歌はそれが分からない。そういった背景と、崇徳院の生い立ちが後世の人々の想像を掻き立てるのかなと思ってます。

瀬を早みの『瀬』は川の流れを表しています。ただ、平安時代に『せ』というと、『妹背』の意味で使われることも多く…。私はどうしてもそちらの意味で取りたくなってしまいます。
妹背というと、男性から見て仲の良い(恋人同士や夫婦関係にある)女性のこと。兄背というと女性から見て仲の良い男性の意味になります。なんでそこでわざわざ「妹」だの「兄」だの使うのかというと…これもまた語ると長くなるのでカッツアイ!そのうち書くよ!(古代日本の婚姻制度と宗教観とジェンダー感なんかにかかわる話なんで、長くなることU・KE・A・I!でも楽しいよ!)

崇徳院は保元の乱で鳥羽上皇方に敗れ、讃岐に遠流されます。保元物語によれば、流されたあと、崇徳院は写経などをして心穏やかに過ごしていたと言われています。ですが、完成した写経を「せめて京の近くに」と、送ったところ、受け取りを拒否され、さらにはビリビリに破かれて送り返されてきたと言います。そりゃ恨むわ。その後は、讃岐の地で自分を蔑ろにした後白河上皇(崇徳院からすると弟)を恨みながら、髭や爪を伸び放題に伸ばし、天狗のような恐ろしい姿になって深い恨みを抱きながら亡くなったといいます(暗殺説もあり。)その間都では後白河上皇の近くにいた人たちが相次いで亡くなったり、病気になったり、反乱や争いが相次ぐなど、たくさんの事件が勃発。これは崇徳院の祟りに違いないと思った後白河上皇(このころはすでに出家して後白河院)は、遠流を取り消し、讃岐院と呼ばれていたのを『崇徳院』に改めさせ、怨霊鎮魂につとめたと言われています。

考えてみれば、崇徳院自身は何も悪いところないんですよね…。ただただ、不運だった。疑い深い父親と、性的に奔放だった母親(これだって、もしかしたら幼くして白河上皇がアレヤコレヤやらかしたからかもしれないし、事実ではないかもしれない)。その間に生まれてしまったが故の悲劇…。
そう考えると、『瀬を早み 岩に堰かるる 滝川の 別れても末に 会わんとぞ思ふ』の『せ(背)』は、いったい誰のことを思った歌なんでしょうね…。

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