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山羊の歌

山羊座はよく真面目と言われる。果たしてこれは正しいだろうか。

牡牛座、乙女座、山羊座。これら土星座には3区分を無視した、真面目、という狭義的な印象が浸透してしまっているように思う。
山羊座の知人や有名人を思い出せば、真面目という言葉は巷の星占いに散見されるように、山羊座という寓意のステレオタイプな印象という感じである。そして真面目の一言で山羊座というサインを表すにはとても言葉足らずである。

土台、という言葉は土星座を語る上で大切なキーワードであろう。これは音楽に例えるならば、旋律の下に流れる低いベースの音である。低い音の特徴として、高音に比べて聞き取りにくさがあるそうだ。コントラバス、バズクラリネット、混成合唱のバスパート。華やかではないけれども、ベースの低い音が一つの音楽を支えているのである。牡牛座が牡羊座の魂の器となる。山羊座は形あるものをまとめ上げ、何もなければ崩壊も革命も起こせない。山羊座の包括と継承があるからこそ、水瓶座というサインで普遍性を追い求める旅が可能となる。そんなわけで端的に表すならば、土星座は星座の土台の役割を果たしている。

改めて3区分という大前提に立ち返ってみよう。
山羊座は活動宮。
真面目という言葉には保守的な山羊座という意味が孕んでいる。活動宮であることを鑑みれば、保守とは対極のサインとも言える。
例えば受け継いでいくこと。膨大な事柄を噛み砕き、先達として教えていくこと。その役割を山羊座というサインが担っている。山羊座を奮い立たせるのは、先見の明であろう。そして目的を見つめる揺るぎない視線、まっすぐな姿勢がある。そんな休みない活動宮の動きを孕みつつ、ストイックに追い求める。登山のように一点を目指して駆け上る。またそのためには、た余計な荷物は旅に不必要であるように、合理的や取捨選択が必要となる(土星の削ぎ落とす性質が現れている)。手段を選ばないドライさとして映ることもあろう。しかし、山羊座には「それでも、」という強さがある。

私の故郷は360度山に囲まれている。抜け出せないような気持ちにさせる。冬になると八ヶ岳の冷たい向かい風が吹いて、自転車が前に進まない。前に進まないけれども、諦めずに自転車を漕ぐのは帰宅という目的があるからだ。ようよう風を乗り切り、今度は葡萄畑の下り坂を駆け抜ける。田畑の土は火山灰のような色で、虚しくなるほどに乾いている。しかし、この土地は先祖から受け継いだものだ。

水害に見舞われても生きてきた先祖がいる。不毛の土地と見放す人がありながら、逆境を生かし果樹を育てるという希望のたねを植えた先祖がいる。土偶が先祖からの遺産であるように、また彼らから脈々と受け継がれてきた生があるからこそ、私たちが今確かに存在していることを有り難さとともにまざまざと見せつけてくる。包括的に見渡すならば、土の時代は命の軌跡であり、また長い長い気の遠くなるような年月を経て残された土偶は、まさに継承の遺産である。

私は故郷の、畑の乾いた土に囲まれながら、「山羊の歌」を聞く。我々は民族の一員であること。先祖から脈々と命を、土地を、故郷を受け継いできたこと。先祖が歌い継いできた牧歌が、命を託された私にはたしかに聞こえるのである。

「淘汰されるものには確かな理由がある。」と本の中で記していたのはたしかパンク歌手であり酩酊を誘うような小説を書いた、あの中島らもだったか。2020年に地球は宝瓶宮の時代へと大きな転換した。風の星座と浮かれる人々の熱狂のうねりの中に私は立ち止まる。住んでいる街や故郷が変わりつつあるようすを見ればわかるように、大きな変革の予感とその中で崩れ去るものを感じている。それでも、戦火をくぐりぬけた絵画があるように、受難にあっても消失しなかった宗教があるように、そしてそれらは確かに継承されてゆくだろう。受け継がれてきたものにはそれだけの価値があるのだろう。

山羊座という土星座の時代の終焉と共に、資本主義の行き詰まり、それに付随した貧困問題、労働問題など明確なテーマを私たちに突きつけてきた。それ以前に、山羊座の時代までに培ってきたものがある。然るべきものが継承されてきたということを私たちは忘れてはならない。

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