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コペルニクス的転回的半回転

音の洪水を浴びるのは心地がいい
そして、歌を歌うのが、とても好きだ
歌は、音を、意味のある言語に変換済みの、世界
だから私は、歌詞の乗っている音楽に一定の「安心」「解放」を覚えるのだ


何十年も生きてきたんだけれど
今朝「ビジュアルシンカー」という言葉を誤認していたことに気づいた
同時に
「これ俺じゃん」が、発動したのだ。


この話を友人がシェアしていたことからだったのだが
https://www.youtube.com/embed/5NJ_tKtvjCs?si=nNSN5B4eEKTn5ElC


昨日の記事の内容とも相俟って
「…ぁ?」となったのであった…


最近、子供たちを見ているせいもあるのだろうけれど
他の人たちと自分のモノの捉え方の違いにびっくりすることが多い


通りすがりのギャラリーで目にした極彩色の絵画
私が、目にした途端に「苦痛」「苦悩」「狂気」などを感じた絵を見ても
4歳と6歳の娘は「意味」を感じなかったのだ。
彼女たちが類似の感情を知らないが故に共感を得なかったからかもしれない
シンプルに、色彩や形に感情や感覚を投影できないからかもしれない
どのような理由であってもいい
彼女たちは、そこに意味を感じなかったから、楽しい嬉しい綺麗なモノと見た


同じようなことは、音楽でも起こる
最近聞いた話なのだが
有名なBORN IN THE USAの誤用・誤解について、だ

この曲が、大統領選の応援ソングとして使われたことがあると聞いて、驚いた
この曲が??

そのTweetにはこう書いてあったようにも思う
「誰も歌詞なんて聞いてないんだよ」って


その、衝撃ときたら


その、衝撃ときたら。


私には、
機嫌のいい時にadoの「うっせえわ」を鼻歌でもうたえたりはしない
yoasobiの「アイドル」や「夜にかける」は日常的に頻繁には歌えない

歌うことでそこに描かれている言葉に乗せられている感情を、再生・体験するのだ
「歌詞」は「歌」そのものであり、楽曲を言語化したモノ
だから、曲の発しているものを、明確に定義して刻むためのモノなのだ


「歌」「曲」というモノの見え方が、人によって、そこまで違うのかと
思い知らされた、衝撃のツイートだった


私は、歌詞の乗っている音楽に一定の「安心」「解放」を覚えるのだ
細部までを読み取らないでいい、ラベル・答え付きの、おんがくなのだから
伝えるべきことを、明確な制度で、共有することが、できるから。

音は、音楽は、絵は
意味を単純化して間違いなく伝達できる骨組みだけにした「言葉」と違い
隅々まで、感覚を駆使して意味を読み取らなくてはならない濃密な情報、なのだ
言葉が乗っていなければ、自ら読み取らなければならない、のだ

言語思考者であれば、その情報の摂取はする必要がないことに、ようやく気づいた
そして、必要がないどころか、できる可能性すら知らないのかもしれないことにも


こちらからしたら
その情報量を認識していない、という可能性を認識していなかったのだ


これを、簡単に「解像度の違い」といってしまうのは何かが違うように思う
”思った以上に人類の多様性っていうのはすごい幅がありそうだぞ”
そう思うことくらいしかできないくらいの、途方もない大きな気づきだったのだ


この、分断や誤解による、数々の苦難や理解や笑い話の記憶が、押し寄せてきた
”……考えてみたらあれは……” が多すぎた
”そういうことだったのか” が、怒涛のようだ


世界は広いけど
まだまだ自分の中の、自分と世界の間なんていう狭い空間にも
謎と未知がたくさん詰まってるんじゃねぇか、って
困惑しならがらも笑っちまいましたよ。
ああもう、おかしいなぁ、やだなぁ、すごいなぁ、いとしいなあ。


ね、おもしろいね
そして、かぎりなく、かなしいね。


全ての誤解を受けた歌に、鎮魂の歌を
すべての、翻訳ミスに、星あかりを


人間のシステムって、こんなにも穴だらけで、可能性に満ちている

サポートいただけたらムスメズに美味しいもの食べさせるか、わたしがドトります。 小躍りしながら。