「大目に見れる」の境界線

最近、ちょっと人間関係で「大目に見ていた」境界線を踏み越えてくる話が、ちらほらあった。
俺は失敗ばっかりの人生で、色々な人に大目に見てもらった。
かなり失礼なことや、ダメなこともしてしまったが「若いから」や「頑張っているから」で許してもらえていたと思う。
しかし、「若さ」や「頑張る」が当たり前の年齢になってくると、この補正は効かなくなるのよね。

それでも、基本的に自分より年齢が下の人間には、寛大でいたいと思う。
人間、いくつになっても失敗するし、この歳になっても現在進行形でやらかすことも多い。
しかし、ある程度の年齢に達したときに、やってはいけないことは「不義理」だと思う。
義理とは、結構あいまいな概念で、人によって、意味が違う。
あっちを立てれば、こっちは立たないのが義理。
人の数だけある正義と似ている。
講師を10年以上やっていると、義理の数も半端ない。
在校生や卒業生との義理も、すべてを果たせない。
でも、生徒との仲は、社会に出ると、それぞれの人生がはじまるので、それ程縛りがきつくなくなっていく。
要は、本当の意味で、俺から卒業生してしまうんだよね。

在校生の場合は、仕事というのもあるが、大目に見る度合いも多くなる。
自分の半分も生きてない子相手に、目くじら立てて怒ってもしゃあないのよね。
自分の器が小さいと言っているようなもの。

でも「信頼して」大目に見る場合と「在校生だから」大目に見る場合は異なってくる。

基本的に真面目に授業に出ている生徒が、たまに提出日が遅れちゃっても許すから、頑張ってねw

というメッセージ。
だからビビらんでもいいよw

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