見出し画像

山に習う

先日、名残りの桜を求めて吉野山へ。
前日の雨で桜は散っていたが、シャガが斜面から空に手を伸ばすように咲いていた。

正午の護摩供に参加して法話を聞いた。
お堂を出る頃には雨がしっとり降り出していた。

人の気配が鬱陶しくなって、大好きなお蕎麦をお腹に入れたら、上千本の水分神社へ。

雲の中を歩く歩く。
数10メートル先も見えない中をふらふら歩く様は、まるで今の自分のようだった。

自嘲気味にふと路傍に目を向けると、雨を吸ったゼンマイと苔が生き生きしていた。
なるほど、運動不足の私には重たい雨でも、草花たちには恵みなのか…
きっと世の中そんなものなのだろう。

さらに山道を歩く。

霧の中に目を引く赤が見えた。早咲きの石楠花だった。
もっと近くで見ようと踏み出すと、足元のチェーンに引っかかってつんのめった。
寄り道なんぞせずにちゃんと目的を果たせ、と言われた気がした。
振り返るとまるで誘うように手招くように石楠花が谷風に揺れていた。

服と靴が雨を吸ってどんどん重くなる。
この道はどこまで続くのか、いつになれば目的地につくのか、知った道なのに不安に揺れる。
きっと霧で見える景色がいつもと違うからだ。
けれどふと過去の後悔や苛立ちもなく、未来のあれやこれやを考える余裕すらなく、霧の中でただ一人歩いている自分に気が付いた。
そうか、法話で仰っていた
「過去も未来も全部権現さん(蔵王権現)に預けて、今を生きることに専念しなさい」
とは、きっとこういうことなんだろうと、身をもって腑に落ちた。

そして、それに気づくと、目の前に目的地である水分神社が現れた。

画像1

権現さまには全てお見通しのようだ。
水分神社の神様は全ての命を育む母神様。
世の中の悲しみの雨から守ってくださるような枝垂桜の下で一息ついたら、いつもの暮らしに戻ろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?