見出し画像

映画『殺さない彼と死なない彼女』批評―コミュニケーションと未来の話―

  日本の劇作家である平田オリザの著書に、『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』がある。「コミュニケーション」という語や、最近では「コミュ力」といった言葉を用いる際、その先に想定されているものは、相互理解の達成であることが少なくない。しかし、コミュニケーションを繰り返した結果、他者のことが完全に把握理解できるなどという主張こそ、私は妄言だと思う。かえってそれは、愛を誓った大切なパートナーや、国家間でのすれ違いを生みだしかねない。どうしてこの人は私のことを理解してくれないのかと。むしろ、私とあなたは同じ人間であることには変わりないが、あなたは私にとって他者であり、私は私以外の何者でもない。つまり、人と人は完全な形での相互理解など果たせるはずがない。言葉によるコミュニケーション一つを取っても、例えば、「赤い家」という言葉を相手に投げかけた時、私が思う「赤い家」と、相手が思い描く「赤い家」は完全には一致しない。絵で表現して見せたとしても、人によってその絵に抱く印象も違うし、着眼点も当然異なってくる。それが小説や絵画、映像ともなってくれば、同じものに触れたとしても、物の捉え方は人それぞれである。しかしそれは、コミュニケーションの「絶望」を意味するものではない。人と人は分かり合えない。だからこそ人は、他者を知りたいという好奇心が芽生えるのだと私は思う。


 『殺さない彼と死なない彼女』が劇中で用いたセリフの数々は、以上に述べたような、他者を知りたいという好奇心から発せられた、ある種詩的表現とも取られかねない不器用かつ純粋な単語の数々である。とりわけゼロ年代以降、邦画作品で毎年定期的に作られるジャンルの一つに、恋愛少女マンガの実写化がある。少年マンガ以上に幅広い題材をカバーする現在の少女マンガであるが、実写映画化ともなると、その多様性とは相反してある一定の型にはめ込まれがちなことは、いくつかの作品を観るだけでもすぐに指摘することができる。ヒロインの前に現れるのは、異なるタイプの男子二人。基本的にヒロインは片方の男子に片想いし、もう片方とは犬猿の仲状態で物語は中盤まで展開する。そして中盤以降になると、それまで犬猿状態であった男子の魅力に気づきだし、一時的に再び不仲に陥るものの、最終的にはいつもそばにいてくれた犬猿男子のもとへと走り出す。作品によって多少の揺れはあるものの、大まかな話の型を抜き出すと、大半の作品はこれに則った作りをしている。すなわち、ここでのキャラクター達には、相手を好きになるという気持ちはあっても、そこで展開される言動はあくまでも予定調和的な型の遂行が最優先されてしまうのだ。画面に登場する俳優たちが、いかに最先端の流行を体現した女子高生を演じようとも、その行動範囲は決まりきった枠を飛び出ることは無い。新鮮味のある身体が、最も新鮮味のない使い古されたフィールドをぐるぐると駆けまわるだけなのだ。古典的な『シンデレラ』の現代版フォーマットと言ってもいい。確かにそれは一定の面白さを提供することが可能だろう。しかし、果たしてそこに映画的な驚きが見られるかと言えば、それは著しく乏しいものだろう。


 『殺さない彼と死なない彼女』の面白さは、第一に、そうした少女マンガの実写映画化に溢れている定型を壊しにかかっている点である。観客は、画面に映し出される3組の若者たちの行方を安易に予想することができない。また、そこで行われるコミュニケーションは、定型的かつ、こそばゆい装飾されたセリフでもない、いわば捨て身の数々である。依存できる物語の型を持たない彼らは、目の前の相手とコミュニケーションを続ける方法を彼らなりの方法で模索し続ける。それがある者は「好き」であったり、「殺すぞ」にもなったりする。そして、そうした言葉の積み重ねは、完全な相互理解とは別に、彼らだけが了解しうるプライベートな空間を形成する。客観的な「死にたい」「殺すぞ」といった言葉に抱く印象とは別に、彼らだけがその言葉の裏に隠された本音を読み解くことができる。すなわち、長い時間をかけて紡がれたコミュニケーションは、非常に繊細なハイコンテクストへと成長していくのだ。その二人だけ、その二人だからこそ共有しあえるコードがその小さな空間には存在し得る。繰り返すが、それは完全な相互理解ではなく、そこに至ろうとした過程で垣間見える他者受容と、その他者がいることで成立する自己肯定の輝きである。3組の若者は、皆が相手の存在に依存し、それを文字通り命綱にしてぎりぎりのところで生きている。しかし、それは同時に自分自身が相手の命綱にも成り得ているということである。誰かが一人でも欠けてしまったならば、世界は一瞬のうちに姿を変えてしまいかねない。劇中ではそこに言及したセリフも登場したが、本作は全編にわたって非常に繊細なバランスで、繊細な世界で生きる、優しさに溢れた繊細な若者たちを描き出すことに成功している。


 それゆえに、物語の「転」にあたる箇所で主人公を襲う悲劇に、私は涙を流さずにはいられなくなる。人の死を映画の中で考えた時、最も画面の中で人の死が描かれるジャンルはホラー、ミステリー、サスペンスなどが挙げられるだろう。しかし、私たちの多くは、劇中の人々がどれほどお化けに虐殺されようが、謎の犯人に殺害されようが、その都度涙を流してはいない。人が作品を通して涙を流すのはどういう時なのか。それは、命を落とした人間の背景にドラマや人生を感じ取った時である。ホラー映画などでは逆にそこを隠すことで、恐怖の感情に観客を持っていくよう作られている。『殺さない彼と死なない彼女』を観た際の私の涙腺崩壊具合は、私の映画体験上、一二を争うほどのものであった。それは単に一人の主人公が命を奪われたからではなく、先にも述べた通り、非常に繊細なコミュニケーションの中で築かれてきた関係性を、「一方的かつ暴力的な他者」が無惨に破壊してくるためである。これと同じ感動は『この世界の片隅に』でも感じることができる。『この世界の片隅に』では、「すず」という女性の日常を繊細に描き出した上で、激化する戦禍に巻き込まれていく様子を同時に容赦なく観客に見せつける。「一方的かつ暴力的な他者」であるサイコキラーに対して、同じく登場人物の「きゃぴ子」は、最初に「こういう愛のカタチって素敵」と言い放って見せるが、「澄子」の否定を受けてすぐに「やっぱりこの人嫌い、死ね」と殺人動画を消去する。この考えが正しいか正しくないかは別として、ここに監督である小林啓一の、「愛」や「コミュニケーション」の在り方に対する作家性が見て取れることは確かである。


 そして、私が本作で最も評価した点は、「結」の箇所にこそある。また話は別の作品に飛ぶが、本作と似た流れの話に、近いものでは『天気の子』が挙げられる。新海誠監督が発表した『天気の子』とその前作『君の名は。』は、非常に綺麗で「リアル」な背景を武器に、良くも悪くも男子の妄想全開なボーイミーツガールものとしてメガヒットを記録した。そのどちらにも共通した展開として、ヒロインが命の危機にさらされるというものがある。特に『君の名は。』では同年に公開された『シン・ゴジラ』とも共通して、3.11を連想させる描写(彗星の落下により津波が町を襲う)があり、ヒロインはその被災者という設定になっている。また、『天気の子』のヒロインも同様に、天気を晴れにする力を酷使した結果、人柱とされてしまう。しかし両作品の結末は、いずれも主人公の少年の奮闘により、ヒロインの命は救われ、二人は今後も共にこの世界で幸せに生きていくというものである。私はここでのハッピーエンドを否定するつもりはない。しかしながら、新海誠監督の両作品を観た時に大きな切なさに襲われた事実もまた否めない。新海監督は『君の名は。』を通して、被災して亡くなったはずの少女を救済してみせた。しかし、実際に現実で生きている我々観客の目の前にはもう、あの時被災して亡くなった「あの人」は戻らないのである。それにもかかわらず、フィクションの世界では「あの人」は奇跡的に蘇生し、これからも「二人」で生きていけるのである。ある意味でこれは恐ろしく残酷だと私は思った。だからと言って、この一点をもって新海誠作品を否定するつもりは毛頭ない。ここで言いたいのは、現実として身近にいる愛する人が、ある日突然何の前触れもなく姿を消してしまったら、それでも私たちは生きていけるのだろうか。いかに考え方を改めて未来に歩いていけるのだろうかという問いである。『天気の子』を観た時に抱いてしまった、このようなある種恐ろしい疑問に対して、『殺さない彼と死なない彼女』は非常にスマートに描いて見せた。それは「未来の話」という言葉を用いただけにとどまらず、その遺志が実際に「未来」を生きる次の世代へと受け継がれ、桜の木の下での彼女の励ましがその後、本来なら無かったかもしれない新たな「二人」(撫子・八千代)の関係を生み出しているのだ。そして、最後に彼女は一人で歩きだす。定型的なボーイミーツガールでもなければ、最終的に犬猿男子と結ばれる、恋愛少女マンガの実写映画化が陥る型とも異なる。彼女は絶望の淵に叩き落されてもなお、彼から託された「未来」を信じて、「一人」で歩いていくのだ。そこには「死ねない彼女」ではなく、「死なない彼女」が力強く立っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?