愚痴を言え。と人から要求された話
先日、会社の同僚と行った2次会の居酒屋で、先輩から、
「お前、もっと愚痴れ。」
と要求されました。
愚痴を聞いてほしい、とお願いされることはあっても、「愚痴れ」ってなかなかなくないですか?
ちなみに、私は会社でも家でも、愚痴らないタイプです。
愚痴らないというと、我慢しているようですが、「愚痴れない」が近いかもしれません。愚痴る、という発想があまりでて来ないのです。
私の人生に初めて突きつけられたこの要求。先輩の理屈は概ね次のようなものでした。
「お前の愚痴によって、お前の周辺で起こっていることや人間関係をリアルに知ることができる。それに、別の機会に俺がその相手と話した時、その人が今度はお前のことを愚痴るかもしれない。そうして、向こうの視点も含めた全体像を立体的に理解することができる。」
お互いにこういう機会を増やすことで、オフィシャルな会話では見えてこない組織のリアルなあり様が見えてくる、というわけです。
私はこれを聞いて、なるほどな、そういう言い方もあるんだな、と妙に納得しました。
その一方で、改めて愚痴ることを求められたとき、まず、
愚痴らない自由を侵害するな
と強く思いました。
(口にはしませんでしたが)
酒の席で愚痴ることは、ハッキリ言って趣味です。
それを面白おかしく言ってエンタメにするのも趣味。
この先輩のように、オフィシャルには言いにくいリアルな情報を共有する手段として活用するのも趣味。
やりたい人が勝手にやれば良いのです。
先輩が言った「愚痴の効用」は、確かにあると思います。
普段見えない関係性をあらわにする。これは何かとことを円滑に進めるのに効いてくることがあります。
また、単なる情報共有よりも、愚痴る本人の感情が乗る分、人がどう関わっているかが、より生き生きと伝わってきます。無機質な情報よりも、人間ドラマのほうが、記憶として頭に残りやすいに決まってます。
しかし、それでも、自分の方法を他人に良かれと奨めるのは、上の世代がよくやる、新世代に裏で嫌われる代表的手法。要注意なのです。
ざっと私の「愚痴れ」という要求に対する心理的な反応はこうでした。
一方で、飲み会で先輩の愚痴を結構楽しく聞いたのも事実なのです。
自分は愚痴らないのに、人の愚痴は楽しく聞けるとは、どういうことだろうとの疑問も湧いてきます。。
これにまだ答えは出ておらず、自分のテーマの一つになっています。
先輩の愚痴に感じた[楽しい愚痴]3つの特徴を挙げて、最後にします。
☝️人ではなく「コト」に愚痴る
ある人をダシに使って愚痴っています。でもよく聞くと、
「部長があんな事を言ってはダメだ!」
といった風に、あるポジションや立場の人のあるべき姿を訴えていたり、起こったことに対する不満を吐き出したりしています。
人の見た目や性格に触れ、生理的に受付けないといった個人攻撃や好き嫌いを言っていません。
✌️聴き手の反応をよく見ている
愚痴を言っている最中も、相手の理解を確認し、「俺はそう感じたんだけど、違うかな?」と双方向コミュニケーションを演出しています。言い換えると、聴衆を置き去りにした「独演会」にならないような工夫があります。
聴き手は、話の「長さ」を無意識に気にするものです。たとえ話が面白くても、いい加減飽きてくるラインがあります。
聴き手の反応を見つつ、このラインを察知して、いいところで終わるのが、上手な人の愚痴り方です。
🤟引き際がいさぎよい
「まあ、そんなとこ!」
とスッパリと締め、後腐れなく、次の話題にさっそうと移って行きます。
聞き手に、わだかまりとか胸糞悪さを残さないのです。
最後までお読みくださりありがとうございました!
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