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罰当たりの娘 2(文學界一次落ち)

 岡田さんは朝から不穏だった。朝食後からずっと、しわくちゃの顔を歪ませ、おかあさん、おかあさん、と呼び続ける声が止まない。

 数日前に同じ看護職員の谷増さんが辞表を出したと噂を聞いた。谷増さんは梓よりもずっと長く勤めているベテランの職員で、梓が働き始めた頃の指導担当だった。辞めていく職員は珍しくないのに、いつもその瞬間は驚く。しかし、どんなに重宝されている職員でも、辞めてしまえば不思議とそれなりに仕事は回っていく。辞めた後彼女がどうするのか、梓はもちろん知らない。梓はすぐにここを辞める気はない。不満はあれど、ここを辞めて行きたい先もない。でもこんなふうに誰かが辞めるときは心がざわつく。ここを去って、行く先のある彼らが羨ましくなる。彼らが去っていくここに残る自分が、何かとても愚図なように思えてくる。

 梓は以前、病院に勤めていた。最初から合わないと思いながら無理をして働いた。このままでは病んでしまうと思って逃げてきたのがこの職場だった。看護師になろうと思った頃、施設で働こうなんて微塵も思っていなかった。母はいつも梓を肯定した。転職をするときも、梓の、施設の方に興味があるという建前の理由を鵜呑みにした。すごいね、人の役に立つ仕事ね。母が言うような誰かの役に立ちたいなんて思いは、働き始めて一年目のうちになくなっていた。

「はいはい、お母さんはいないのよ」

 物思いに耽っていた梓は、白川副主任の声で我に返る。言われた岡田さんは自分のことだとは理解していない顔で、白川副主任を見つめ返している。アハハ、とロビーにいた他の職員が乾いた笑いで応える。面白いなんて思っていやしないだろうに、と笑い声が気に障るが、梓自身、笑い返す役割に回ることがある。

 梓は目の端で、椅子から立つ上家さんに気づいた。足元はふらついておぼつかない。

「上家さん、どこ行くの」腕を取って腰に手を回すと、上家さんはうざったそうに目を伏せた。「座ってて。もうすぐ昼ご飯だから」まだ一時間も先だが、そう言って座らせる。絶望したように頭を抱え込んだ上家さんを横目で見て、梓は記録作業に戻った。

「もうー、だめですよお」

 中原さんの声が聞こえて何事かと見ると、廊下の隅で中原さんが渡里さんに取り付いていた。渡里さんのズボンと紙パンツが下がって、尻がほとんど丸出しになっている。中原さんは渡里さんのズボンをずり下げようとする手を掴み、ズボンを上げてやろうとしているが、渡里さんは嫌がって力を緩めない。手伝いに行こうと梓は腰を上げた。

「やめてよ渡里さん。誰も見たくないよ」そう言ったのは白川副主任だった。アハハ、とまた数人が笑った。

 中原さんは渡里さんから手を離し、困ったような笑顔を白川副主任に向ける。その間に渡里さんは床にズボンを脱ぎ捨て、ずれた紙パンツから尻の割れ目が丸出しになる。色の白い、見慣れた弛んだ皮膚だった。

「あーあ、もう」

 中原さんは尻を出したままソファに座ろうとする渡里さんの腕を取り、部屋へ戻っていった。他の職員はもう中原さんたちのことには興味を向けなくなって、夜のシフトの話を始める。梓は中原さんの背中が遠くなっていくのを見つめた。さっきの中原さんの笑顔が取り繕ったように疲れて見え、気にかかった。

 ここで働き始めて間も無い頃から、中原さんは辞めたいと漏らしていた。

「ああやって笑い物にしたりするの、どう思いますか」中原さんにそう尋ねられた日の朝、揶揄われていたのは岡田さんだった。

 中原さんは以前デイサービスに勤めていたと言った。デイより、深くお年寄りに関われると思って入居施設にしたけど、少し後悔していると話した。梓はその日、白川副主任の軽口に微笑んで調子を合わせていたことを中原さんに気づかれていなければいいがとヒヤリとしながら、まあひどいよね、と同調した。正しいのは彼女だった。しかし、若さのためかそんなふうに潔癖で、この子はすぐ辞めてしまうのではないかと危うく思った。

 度々辞めたいと言うのとは裏腹に、中原さんはすぐに職場に馴染んだ。飲み込みが早く、体力もあって、役職のある人たちにも気に入られた。人好きがするのか、他の職員の言うことは頭に入らないのに中原さんの言うことは聞く入居者が何人かいて、みんなの孫なんて職員にあだ名をつけられた。いつの間にか、笑い物にすると彼女が嫌悪した軽口もうまく受け流すようになった。けれど内心、そんなふうにあだ名で揶揄われることも、利用者を笑い物にすることも、いまだに苦手なんだと彼女は梓にだけ話した。梓にだけは愚痴を言ってしまうと申し訳なさそうに言った。それは梓も同じだった。同じ頃に働き始め、新人として同じように右往左往して悩んだせいかもしれない。

 先に昼休憩に入った中原さんを追いかけて、梓はいつもより少し急いで昼食を食べ終えた。休憩室には中原さん以外の姿はなく、中原さんは梓の気配に気づいてスマホから顔を上げ、笑顔を見せる。

「渡里さんあれからどうですか?」

 言って、梓は中原さんの斜め向かいの椅子を引いた。中原さんは慣れた様子でスマホの電源を押して画面を消し、なんのことか考えるように目線を外して宙を見た後、ああ、と声を上げる。

「大丈夫ですよ。やっぱりおしっこしたかっただけだったんですね」

 あの後、梓が訪室すると中原さんは渡里さんに紙パンツを履かせようとして悪戦苦闘しているところだった。梓はかぶれでもあるのかと陰部や臀部を確認したが、異常はない。裸のままで居させるわけにもいかないので、どうしようかと話し合っているうちに渡里さんは思い出したように急に尿意を訴え、排泄し終えると何もなかったかのように紙パンツを履いたのだった。あれだけ手を煩わされた渡里さんがスッキリした顔で大人しく座っている姿に妙な愛おしさが沸き上がって、中原さんと梓は目を見合わせて笑った。排泄しようとして混乱してしまったのだろう。入所者の妙な言動にその人なりの理由があることに気付かされることは度々ある。そんな時梓は認知症の症状だとばかり思っていたことを反省する。「なんだおしっこだったんだね。ごめんね」中原さんがそう言ってくれて、梓は嬉しかった。

「なんか今日不穏な人多いですね。今日の夜勤大変そう。上家さんもさっき膝折れしたんですね」中原さんはテーブルに頬杖をついた。

「そうそう。怪我はないみたいですけど。白川副主任が家族に連絡入れるって。去年も転んでるから、何か言われるかも」以前の転倒の際、梓も看護師として家族と話した。その時に、誰かついていなかったんですかと苛立ちを露わにされたのだった。

「何か言われる?」

 中原さんに聞き返され、梓はその時のことを話した。白川副主任に、とにかく転ばせないでください、と家族は力を入れて言ったそうだ。中原さんは眉間に皺を寄せて嫌そうな顔をする。

「でもどうしようもないですよねえ。歩いちゃうもんは。センサーマットも外れて歩いて行っちゃうし」

「ずっと見てろってことなんでしょう」

 無理に決まってるというニュアンスを含ませて言うと、中原さんがフン、と鼻で笑った。

「そういえば谷増さんって辞めるんですか?」梓より谷増さんと親しい中原さんなら知っているのではないかと思った。

「みたいですよ。引き止められはしたみたいですけど」案の定、中原さんは言った。

「やっぱりそうなんだ。いつです?」

「来月末らしいです。有給があるから実質今月までみたいですけど」

「最近続きますね。中原さんは辞めないですよね」

「今のところ辞めるつもりはないですよ」中原さんが苦笑いで言い、梓はほっとする。

「良かったあ。唯一の同期ですもん」

「ねー、みんな辞めちゃって。好井さんも辞めないでくださいね」

 どうかなあ、と梓がおどける。もうまたそんなこと言って、と中原さんが笑う。

「そういえば光田さんとかどうしてるんだろう。なんか仕事してるのかな」光田さんは半年前に辞めた介護職員だ。経験が豊富でなんでもこなし、人が嫌がることも率先してやる人で、皆に好かれていた。なかなか仕事と人間関係に慣れることができなくて悩んでいた頃の梓にも優しかった。半年前、彼女は夫の都合で引っ越しをするから平和的に辞めていったのだった。

「今はグループホームみたいですよ」

「グループホームか。光田さんならどこでも大丈夫なんだろうな。でも中原さんすごいですね。辞めた人ともそうやって関係が続いて」

 梓は内心、劣等感を感じた。光田さんが辞める時、梓も連絡先を聞こうかと思わないでもなかったが、一対一のやりとりで何を話せばいいのか分からなくなって気まずくなることが目に見えて諦めた。

「そんなことないですよ、私も疎遠になった人いますよ。学生時代の友達ともそんな会わなくなっちゃったし。最近、縁が切れちゃった人がいるんですけど」

 中原さんはいつになく沈んだ声で、言葉を選ぶように少し間を置きながら話す。

「前の職場で仲良くしてた子で。居心地のいい職場じゃなかったんですけどその子がいたから続けられたようなもんだったんです。それで仕事変わった後も時々、年に一回とかなんですけど誘ってくれてご飯食べに行ったりしてて。でもだんだん、前の職場の人の噂話しか話すことなくなってくるし、正直あんまり楽しくないな、どうしようかなって思ってたんですよ。それで、最後に会ったのが一年前なんですけど、その時、子供ができたって言ってたんですよね。今日はお酒飲まないって言った時からそんな気はしてたんですけど。それで最近また連絡来て、ご飯行かないかって。でも次に行っても話すことってどうせ子供のことじゃないですか。そう思うとなんか行く前から嫌になっちゃって。だからスルーしてるんですよ、ずっと。ひどいですかね」

 梓は考えこんで、うーんと唸る。

「その人、そういう自分の話ばっかりの人なんですか?」

「そんなことはないんですけど……」中原さんは俯いて考え込んでいたがそのことには答えずに、「好井さんって結婚願望ありますか?」顔を上げて梓に真剣な目を向けた。

 梓は少し面食らった。近頃、梓にそれを尋ねてくる人はほとんどいない。もっと若い頃は雑談のように話したこともあったが、年齢を重ねるにつれ気を遣われるようになったのか、尋ねられることは無くなった。

「急にすみません」

「いやいや」梓は首を振る。

「私は、今は無いかな。結婚してる人見てたら自分には無理だなって。妻やる自信ないし。自分のことで精一杯。このままでいいのかなって時たま思いますけどね」

「それわかる。めっちゃわかります」

 中原さんは大きく頷く。尋ねるということは話したいことがあるのだろうと梓はその先を待つ。中原さんは深くため息を吐き、テーブルに頬杖をついて項垂れる。

「でも私はずっと一人で生きていける気がしないんですよね。給料安いし、働くの好きじゃないし。正直、焦ってて。友達はどんどん結婚してくし、弟が去年結婚したんですけど、親戚のおじさんなんか先越されたとかデリカシーなく言ってくるし。子持ちの友達は子持ち同士で集まってるみたいだし、別にそれはそれでいいんですけど、独身同士で集まれば変わったことはないかっていつも聞かれて、次は誰が結婚しそうなのか探り合いみたいで。だからなんか、友達とも今までみたいに何も考えずに付き合えないんですよね」

 梓は内心、友達が多いのも大変なんだなと他人事のように思った。

「でも成瀬さんとか見てたら、結婚してからもこの仕事とか私には無理って思う」中原さんは開いたままのドアに視線を走らせ、誰もいないことを確認してから言った。

「あー、わかる。すごいですよね」梓は思わず声を大きくする。

「ですよね」さっきまでの苦々しい表情から一変し、中原さんも今日一番の笑顔で声を弾ませた。「フルタイムで仕事して、夫がたいして家事やらないなんて、それじゃ結婚するメリットないですよ。よくやるなあって思う」

 すごいという言葉の裏には羨望とともに、成瀬さんにはない自分たちの自由さへの優越感も含まれている。

「私、すぐには辞める気ないですけど、ずっとこの仕事でいいのかなって思う時あるんですよね。介護の仕事やりたくて始めたわけじゃないし」中原さんは遠い目をした。「小学校の頃の私の夢って、パン屋さんかケーキ屋さんだったんですよ。でも今も、いいなあって思うのに、挑戦してみようと思えるほどの情熱はないんですよねえ。介護よりよっぽど好きなのに」

 パン屋さんかケーキ屋さんかあ、と梓は呟いて、自分はどうだったろうかと思いを馳せる。

「私、看護師って書いたんですよね」

「えーすごいじゃないですか。夢叶えてる」

 言葉とは裏腹に、中原さんの声は平坦だった。そんなつもりではなかったのに、言わせてしまった気がして梓は後悔し、話を終わらせるために曖昧に笑った。

 会話が途切れ、梓はコーヒーを入れに席を立つ。底に黒のマジックで苗字が書いてあるマグカップに、職場に買い置きしているインスタントコーヒーを入れる。ポットで湯を注ぎ、スプーンでかき回すと、水面は円形に泡立った。その揺らぎをぼんやりと見つめながら、梓は岡田さんのことを話してみようかと思い立つ。岡田さんって毛深いですよね。そう言った後の中原さんの反応を想像する。たしかに、と一緒に笑ってくれるのか、変なことを言うと首を傾げるのか、そんなことを言うのは良くないと顔を顰めるのか。

 その想像は遅出の飯沼さんが入ってきたことで終わってしまう。「今日大変ですよ」中原さんがおどけた口調で言い、「えーまじで。なに、どしたの」と飯沼さんが鞄を下ろしながら言うのを、梓は背を向けたままスプーンを流水に当てながら聞いた。

 中原さんと違って、梓の友人との思い出は、ほとんどが小学生の頃だ。

 美幸ちゃんとは、近場で遊ぶのがほとんどだったが、一度だけ、春休みに一緒に遊園地に行った。梓も美幸ちゃんもずっと前から楽しみにして、自分たちで「遊園地のしおり」を作るほどだった。梓の母たちは梓たちがいない間にホテルのランチに行くことになっていて、その朝、母はリビングに鏡を持ってきて、念入りに化粧をしていた。

 美幸ちゃんのお父さんの車では梓が聞いたことのない音楽が流れていた。走る車の中で、梓たちは前日に買ったお菓子を見せ合い、どこの遊園地に行ったことがあるか話した。美幸ちゃんは梓がテレビでしか見たことがない遠くの大きなテーマパークにも何度も行っていて、隣県までしか行ったことのない梓は羨ましかった。同じマンションとはいえ最上階は広い間取りで、美幸ちゃんのお父さんの乗っている車は高価そうでピカピカに手入れされ、美幸ちゃんの家はそういうことをする余裕のあるうちなんだと子供心になんとなく感じていた。

 もう一人来るからと美幸ちゃんのお父さんが言って、車はしばらく走った後マンションの駐車場で止まり、乗り込んできたのは梓の知らない女の人だった。美幸ちゃんのお父さんの職場の人だと紹介された彼女は、ロングヘアで笑うと目が細くなって眉間に横皺が寄る、気さくな印象の人だった。

 美幸ちゃんも美幸ちゃんのお父さんも、当然のような顔をしていた。美幸ちゃんとお姉さんは友人のようにアクセサリーやネイルを褒めあった。梓だけが、この人はどうして一緒に来るのだろうと不思議に思っていた。けれど、初めて友達と行く遊園地は楽しくて違和感はすぐに忘れた。お姉さんは首から下げた大きなカメラで梓と美幸ちゃんを写真に撮ってくれた。梓たちがアトラクションに乗り、美幸ちゃんのお父さんとお姉さんは、ノンアルコールビールを飲みながら手を振ってくれた。一日はあっと言う間に過ぎた。

 閉園間際、美幸ちゃんと美幸ちゃんのお父さんは、はしゃぎ過ぎて疲れ切ってしまった梓を残して最後のアトラクションに乗りに行った。美幸ちゃん元気ねえ、とお姉さんは美幸ちゃんたちを見送り、二人で待っている間、その日撮った写真を見せてくれた。お姉さんはカメラの送りのボタンを押しながら梓に尋ねた。美幸ちゃんの家にはよく行くの、お兄さんとは話したことある、美幸ちゃんのお母さんってどんな人、厳しいお母さんなんでしょう。ボタンを押す速さが速くて写真を見逃してしまいそうで、梓は次々と切り替わる画面に齧り付くようにしながら、お姉さんの質問に生返事で答えた。梓と美幸ちゃんがジェットコースターに乗っているところ、ソフトクリームを手にポーズを取っているところ、美幸ちゃんが撮った、フランクフルトを食べる美幸ちゃんのお父さん。画面を変えるお姉さんの指が止まった。止まった画面には、梓と美幸ちゃんが、レールを走る自転車に跨って、ピースサインをしている写真が写っていた。眩しかったせいで、梓の目がほとんど閉じてしまっている。次が見たいのにどうしたんだろうと顔を上げると、お姉さんと目が合った。ニコニコしていると思っていたお姉さんは、ひどく疲れたような面倒くさそうな顔をしていた。ずっとこんな顔をしていたのだろうか。さっきまでの気さくなお姉さんと違う人みたいで、梓は急に不安になって目を伏せた。カメラ見てもいい? と尋ねるとお姉さんはカメラを渡してくれ、それからはずっと写真を見ていた。お姉さんと話さずに済んでほっとした。

 その日の写真は、美幸ちゃんが現像して渡してくれた。梓が半分目をつむった写真もあった。美幸ちゃんの写りがいい写真ばかりで、梓はちょっと不満だったけれど、美幸ちゃんは嬉しそうに友達に見せて回っていた。

 もっと一緒に遊びに行けると思っていたのに、夏になると、美幸ちゃんは私立中学を受験すると言って塾に通い始めた。それからまもなく、楠本くんがね、大谷くんがね、なんて、梓の知らない子の話をするようになった。梓はその話を聞くのが嫌だった。梓の知らない場所の、知らない子の話なんておもしろいはずもない。美幸ちゃんが大谷くんという男の子との仲をからかわれると話す様子は嫌だと言いながら嬉しそうで、梓は内心それを冷めた目で見ていた。受験の時期が近づいてきてようやく、美幸ちゃんと中学校が違ってしまうことが現実味を帯び、落ちればいいのにという梓の密かな思いとは裏腹に、美幸ちゃんは第一志望だった近くの私立中学校にあっさり合格した。

 美幸ちゃんのいない中学校で、梓は新しい学校生活を始めた。

 社会状況を鑑みて今回の昇給は無しとします。そんな一文が入ったメールが社内共有システムに届いたと、朝、白川副主任がパソコンの画面を見ながら声を上げ、聞きつけた数人が取り掛かっていた仕事の手を止めて集まり、それは瞬く間に職員全員の知るところとなる。じゃあうちらもそれくらいの働きでいいってことよね、と勤続十五年で先月表彰されたばかりの飯沼さんは吐き捨てるように言い、そろそろ辞め時ですかねえ、子供が小学校に上がったら時短勤務できなくなるし、と成瀬さんが苦々しく呟く。

「社会状況を鑑みてって何なんですかね。せめて業績が悪いからって言われればまだ納得するのに」

 昼食の食事介助の途中、中原さんが思い出したように呟いた。中原さんは、あーあ、と大きくため息をつきながら、利用者の口の端からこぼれ出るミキサー食をスプーンで器用に掬い取り、また口の中に入れる。別のテーブルで同じく食事介助をしていた成瀬さんが、フン、と同調するように鼻で笑った。ロビーではかつんかつんとスプーンが食器に当たる音が忙しなく響く。介助中に私語はしないよう言われているけれど、主任たちがいない時にはそのルールもうやむやになる。

「ほんと。ああこういうことするんだって、先が思いやられるわ。社員を大事にしない会社に未来はないね」成瀬さんがスプーンを上下に揺らしながら言う。

「この分だと次の四月の昇給もないんだろうなあ」中原さんがぼやく。

「まあ、あっても僅かなものですけどね……」梓が言うと、

「いやそういう問題じゃなくて。人が足りないなかなんとかやってるのに、やる気が削がれるじゃないですか」成瀬さんは食い気味に言った。険のある口調に梓はどきっとする。無くてもいいという意味で言ったわけではなかったのに、成瀬さんは梓の意図とは違う受け取り方をしたようだった。

「うん、私もそう思いますよ」慌てて言う。「ただそもそも少ないよなっていうだけで」

 成瀬さんは梓の弁明に何も言わない。成瀬さんにとっては攻撃したつもりもない、何でもないことで、梓がどういうつもりであろうと関係ないのかもしれない。中原さんはまるで何も聞いていないかのように食器に視線を落とし、ミキサー状のかぼちゃの煮付けをスプーンで集めている。

「看護師さんは手当があるからいいなあ」

 ね、と成瀬さんは梓ではなく中原さんに笑顔を向けた。梓は顔を伏せたまま、苦笑いで答えているだろう中原さんの気配を感じる。いやいや、そんなにないですよ。梓は小さく呟いて卑屈な笑いを漏らした。その呟きも誰にも拾われないまま、食器がお盆に置かれる音、スプーンと食器が当たる忙しない音に紛れる。

 成瀬さんとはこんなふうにうまく噛み合わなくて、苛立ちを露わにされることが時々ある。何を言い募ったとしても、この気まずさを誤魔化そうと関係のないことを話したとしても、後になってそれが余計に自己嫌悪を強めるだろうことを、梓はこれまでの経験からわかっている。それを気に病んだこともあった。今はだいぶ割り切れるようになったとはいえ、ともすれば自分が悪かったのだろうかと考え込んでしまいそうになる。そんな時、梓は気にしないよう自分に言い聞かせ、考えを別に逸らすようにする。

 目の端で、岡田さんが渡里さんの食器を引き寄せたのに気づき、梓は慌てて食器を取り上げる。

「だめだめ、岡田さんのはそっち。渡里さん、これ渡里さんのご飯。食べて」

 渡里さんの口に一口入れてやる。渡里さんは「え?」と不安そうに梓を見て言ったきり何か考え込むように手元を見つめ、静かに咀嚼していたかと思うと、口に指を突っ込んでグチャグチャと掻き回し、出してしまう。

「あーあ出しちゃった」中原さんが言う。「渡里さん、歯の調子が悪いからうまく噛めないんでしょうね」言われて梓は、朝の申し送りで、そんな話があったことを思い出す。夜勤の飯沼さんが、渡里さんの入れ歯が壊れたことを、歯科医に連絡すると報告していた。

「先生が来るのいつだっけ?」

「確か明日じゃなかったですか。木曜、休診だから」

 自分の食事がなくなったことで不穏になったのか、岡田さんが苦悶するような声を上げ、体を捩る。捩った体が車椅子の上でどんどんずれていく。

「岡田さん、危ないよ」

 そう言っても、わかってくれるような相手ではない。岡田さんは体重があるので沈んだ体をずり上げるのだって一苦労だ。渡里さんはと見ると、梓が口に入れたものを咀嚼しては指で掻き出すことを延々と続けている。梓は先に岡田さんの歯磨きを終わらせて部屋に戻ってもらう段取りに決める。

 梓が岡田さんの口腔介助に入ると、中原さんが代わりに渡里さんの食事介助に入ってくれた。渡里さん、食べないと、いやいやじゃないよ。言い聞かせる中原さんの声を聴きながら梓は岡田さんの入れ歯を洗浄液に浸け、うがいをさせる。あっ、と中原さんの声が聞こえた。短く鋭い声だった。反射的に振り返り、梓は中原さんが渡里さんの肩を強く押すところを目撃する。押された渡里さんの体がぐんと傾ぐ。転倒する、と梓の血の気が引く。渡里さんは、ああ、と苦悶するような声を上げて頭をテーブルにぶつけそうになったがぶつかることなく、ゆっくりと体を起こした。中原さんは右目を押さえている。嫌がって跳ね除けようとした渡里さんの手が当たったのかもしれない。そう考えている間に、パッと顔を上げてこちらを見た中原さんと目が合った。中原さんは我に返り、梓に見られていたかを確認したのだった。

 一瞬、しんと静まり返って空気が張り詰める。言うまでもなく、利用者に手を出すことは禁忌だ。梓の頭に虐待という言葉が浮かび、慌てて打ち消す。咄嗟のものだ。やろうとしてしたことではない。中原さんの目は追い詰められているように見え、梓は渡里さんのことを心配するよりも、中原さんを安心させてあげなければと一番に思った。

「大丈夫?」

「すみません」

「目に入った?」

「指がちょっと」

 中原さんは目から溢れた涙を指先で拭い、急に思い出したように顔を上げ、決まりが悪そうに渡里さんを見た。梓も視線の先を追って渡里さんを見ると、渡里さんは何もなかったみたいに座っている。

「大丈夫ですよ」梓は成瀬さんや飯沼さんが背を向けていることを確認する。二人とも、洗面台の前で歯磨きを終えた人にうがいをさせている。今あったことには気づいていない。

「私代わります。中原さんは岡田さんを部屋に連れて行ってもらえますか。ついでに目も洗ってきたらいいですよ」

 中原さんは動かない。梓は中原さんの動揺を察する。

「大丈夫、渡里さんどこもぶつけてないし。後で見ときます」

 中原さんはすみません、と目を合わせないまま頭を垂れ、岡田さんの後ろに着く。慣れているはずなのに、岡田さんの足をフットレストに乗せ直すのにも手間取り、ぎこちなく車椅子を方向転換する。岡田さんと中原さんの後ろ姿を見送り、梓は渡里さんの隣に座った。渡里さんは中原さんに文句を言うでもなく、梓に注意を向けることもなく、ぼんやり前を見つめている。さっき押されたことも、頭をぶつけそうになったことも理解していないのかもしれない。

 さっき、大きく首が傾いでいた。「渡里さん首痛くない?」梓は何も答えない渡里さんの首に触る。不快そうに渡里さんは眉を寄せる。肘掛けに当たっただろう腰部を確認する。何となく、赤みが出ている気がして、腰をさすってやる。たぶん後には響かないだろう。「大丈夫ね」誰も答えないから、自己完結させる。

 スプーンにおかゆと小松菜の胡麻和えを乗せ、渡里さんの口に運ぶ。渡里さんは不思議そうに梓を見る。唇にスプーンが当たると嫌そうに顔を歪め、それでも口を開いた。しばらく咀嚼し、また指を口に入れ、掻き出す。

「あーあ。渡里さん駄目ですよ、食べ物を大事にしないと。だから罰が当たったんだよ」

 渡里さんに言ってみる。言ってからおかしくなって、ふふふ、と笑う。さっき見た、中原さんに押されて大きく体の傾いだ渡里さん。ああ、という苦悶に満ちた声と、起き上がり小法師みたいに戻ってきた体。うんざりするほど見飽きた風景の中に突然現れた非日常的な光景。緊張していた反動なのか、思い出すとおかしくて笑いが込み上げてくる。こんなふうに不謹慎に笑い、何もわからない年寄りに一方的な言葉をかけて発散する、自分の意地悪さも馬鹿らしい。

 食べ物を粗末にすると罰が当たるよ。

 そう言われたことがある。多分、今まで何度も。

 小さな頃、好き嫌いをする梓に母はいつもそう言った。母以外で梓にその言葉をかけたのは柳瀬先生だった。給食を残した時だったか。魚のフライを駄目にしてしまった時だったかもしれない。名前は忘れたけれど、クラスメイトのお節介で言われたこともある。あれはあの子の親があの子に言って聞かせていたんだろう。そういえばモナカアイスを車から捨てたあの後、梓はどうしたのか思い出せない。罪を隠し通せたのか、父に気づかれて件の言葉で叱られてしまったのか、記憶が曖昧にぼやけている。あの時履いていた、カラフルなヘビ柄の変なスカートは覚えているのに。

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