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罰当たりの娘 1(文學界一次落ち)

 子供の頃、走る車の窓からモナカアイスを捨てた。

 その日は珍しく梓と父だけだった。梓は後部座席で、忙しなく流れていく窓の外の景色を眺めていた。日差しの強い、真夏の暑い日だった。アイス食べるか、と父が言ってコンビニに車を停め、梓はアイスケースの中から普段なら選ばないモナカアイスを選び、一口食べた瞬間にお腹がいっぱいなことに気づいて途方に暮れた。

 食べられないこれをどうしようかと逡巡しているうち、アイスは手の中でじわじわと溶けていく。運転席の父は鼻歌を歌いながらフルーツ入りのミルクアイスバーをすぐに食べ切ってしまって、梓が困っていることにも気づかずに、今日は暑いなあ、なんて今更な独り言を言った。モナカの隙間から染み出したバニラアイスが指を伝い、梓はそれを泣きそうになりながら慌てて舐め、ついに捨ててしまおうと思いついた。

 風にあたりたいと言うと父は怪しんだ風もなかった。窓を開け、モナカアイスを持った手を窓の外に出し、迷っているうち信号を一つ過ぎた。梓は強風に吹かれながら父の様子を伺い、思い切って手を離す。走る車の遥か後方で、ベシャッと音がした瞬間の、鼓動の速さと、風のぬるさを覚えている。

「物干し竿は下ろしておいたからね。食べるものはあるんでしょ? 買い物は出ない方がいいよ。今回直撃らしいから」

 梓が言葉を切るごとに、父は律儀におうと返事を寄越した。オレンジのチェック柄の布張りソファに持たれて、小柄な体を曲げ、何をしているのかと思えばスマホを覗き込んでいる。長年かけている近視の眼鏡を額にずらして、そんな光景も老眼が始まってから見慣れたものになった。梓はシンク下の保存食入れにもう賞味期限が切れそうになっているお茶漬けとカップスープと袋ラーメンがあることに言及しようとしてやめる。この家は父しか暮らしていないのだから、それくらい自分で気づいて欲しい。何より母の代わりみたいにはなりたくない。それはこの家に通うたびに梓が改めている戒めだった。

 じゃ、私帰るからね。これにも父はおうと答える。きっと母がこの家を出て行く時にもそう返事をしたんだろう。行くなとか、なぜ出て行くのかとか、いつ帰ってくるのかとか、そんなことを言う父だったら、母はいなくなったりしなかった。私出て行くからね。おう。離婚はしなくていいのね。おう。梓は玄関のドアを通り抜けながら、父と母が交わしたかもしれない会話とも言えない会話を想像して馬鹿馬鹿しくなって、フンと鼻を鳴らす。ガチャンと背後でドアが閉まる時にはもうエレベーターの下へ降りるボタンを押している。

 週末にかけて大型台風が近づいていた。明日はきっと電車通勤の人が来られないから、今頃管理職の人たちが慌てて出勤者の調整をしているんだろう。元々出勤予定の梓には関係のないことだけれど。車を走らせながらどの道を通ろうかと思案し、まだ早い時間だからとバイパスを通ることにする。実家と梓の住むアパートを繋ぐバイパスは夕方になるとトラックが増えてやたらと混む。まだ台風の最接近までは時間があるのに、思いのほか風は強くなっている。坂を登り切って視界が開けると、中古で買った軽のワゴン車が横風に流される感覚があり、ハンドルを強く握った。

 母に連絡はしなかった。祖母の家は平地にあり、十何年か前の豪雨では床下が浸水したらしいが、今回の雨では大丈夫だろう。のんびりしている父とは違って、母は今まで家庭を切り盛りしてきたのだから、梓が口を出さなくともこんな日には外をぶらぶら歩いたりしないし、歳をとった女二人では食べきらないほどの備蓄だってきっとある。何より、できるだけこちらから連絡はしない。そう決めたのだった。

 朝、叩きつける雨で体を濡らしながら車に飛び乗った。

 地下の職員入口を抜け、更衣室で濡れたジャージのズボンを履き替える。いつも更衣室で鉢合わせる職員がいないから、他の部署は休みになったのかもしれない。

 梓は制服に着替え、デイサービスのある一階を通り過ぎ、エレベーターに乗り込んだ。梓の職場である特別養護老人ホームは二階にある。雨のせいで、フロアはいつもより暗い。朝なのに日暮れのような暗さの中で、白熱灯が煌々とたかれている。それぞれ椅子や車椅子に座っている利用者の顔を横目で見て、ロッカーに貴重品を放り込み、事務所に入る。山本主任は介護記録を書いているところだった。おーよかった来れたね、と山本主任は安堵に満ちた声で言い、小学校や保育園が休みになって来られなくなった職員の名前を何人か挙げた。代わりを頼んでも全ての穴は埋まらなかったらしい。看護師の梓も今日は昼休憩返上で介護士の業務を手伝うことになる。

 早番の中原さんは朝から疲れ切っていた。今日は上家さんが不穏で、離床センサーが何度も鳴って対応に追われたのだという。上家さんはこの施設で一番若いが、脳梗塞の後遺症で歩行がおぼつかない。立ち歩く時は見守りが必要だが、何度言い聞かせても一人で立ち歩いてしまう。病気の影響か元々の性格なのか、彼女はいつも憂鬱そうな顔で時には頭を抱えこんでいる。座る場所はロビーの真ん中を嫌がり、いつも職員の事務所が見える、他利用者に背を向ける席を好んだ。

 申し送りが終わると梓はバイタルチェックで、中原さんはトイレ誘導とおむつ替えで居室を回る。中原さんは利用者のズボンを上げながら、おむつを丸めてポリバケツに放り込みながら、器用に雑談を仕掛ける。そもそも私今日勤務じゃなかったんですよ、出るのはまあ仕方ないですけど、連勤になるのに手当はないし。止まらない中原さんの愚痴の合間に、デイは休みなのかな、と尋ねると、そうみたいですよ、と中原さんはポニーテールの顔まわりに垂らした髪を耳にかきあげた。いいですよねー通所は、こっちは休みなしですもん。夏に染めた髪色がどんどん抜けて明るくなってきている。中原さんは梓より五つ年下だけれど唯一の同期で、梓が一番気構えなく話せる相手だ。

「中原さーん、ちょっと手伝って」角の部屋から派遣の平林さんが顔を出した。

「はーい」中原さんは押していたワゴンを置いて小走りで向かう。あそこは橋下さんの部屋だ。こんな場面はよく見かける。確かに、橋下さんは体が大きくて拘縮があって介助がしにくい。でもあの人いつも、しれっと自分が楽な方やるんですよね。中原さんはいつかそう不満をこぼした。中原さんは誰にでも愚痴を言うわけじゃないから、梓は他の職員より心を許されている気がする。

 中原さんがいなくなって、梓は廊下に一人残される。人目がないのをいいことに、次の部屋には向かわずに束の間の休息をとる。ロビーから、おかあさあん、おかあさあん、と叫ぶ岡田さんの声が聞こえる。岡田さんはこの施設で子供に還っている。最初こそ気の毒になって気が滅入ったけれど、今ではなんとも思わない。気まぐれにはいよ、なんて適当に返事をする職員もいる。それに笑うのが小さな息抜きにすらなっている。

 介護度が高い人ばかりのこの施設にも、話ができる人は何人かいる。梓は自分の話をすることに飢えている彼らから、どこで生まれたのか、どんな幼少期を過ごしたのか、戦時中や戦後の苦労話を聞かされた。バイタルチェックをしながら、食事介助をしながら、繰り返し、同じ話を何十回と。しかし岡田さんは梓がこの施設に来た頃からこんな調子で、彼女がどんな少女だったのか、いつも呼んでいるお母さんがどんな人だったのか梓は知らない。岡田さんは他の利用者の食事を取ろうとしたりひっくり返したり、おとなしい利用者の頭を小突いたり引っ掻いたり、ここではずっと厄介者だ。梓はいつも、彼女の鼻の下に生えている、女性にしては濃い髭に目が行く。隣に座る渡里さんの食器を手元に引き寄せる岡田さんを、それは渡里さんのよと制しながら、彼女の鼻の下を見てしまう。高齢の人には珍しく頭髪も陰毛も黒々としているから、毛の濃い体質なんだろうと彼女の尻に軟膏を塗ってやりながら考えることもある。誰かに話してみよう、他の人もそう思ってるかもしれないから、と思いながらも頭の中にとどめているのは、いざ話そうとして想像すると、それがうまく笑い話にできないからだ。

 小学校の卒業文集で、将来の夢の作文を書いたことがある。梓には特別なりたいものはなかった。ケーキ屋さんはケーキが好きだからいいと思うし、本屋さんは漫画が好きだからいいなと思うけど、なりたいかと言われるとそんなわけでもない。なりたいものがないですと言ったら、担任の奥谷先生に社会科準備室に呼び出された。順々に呼ばれ、梓は何人か目だった。ほんとになりたいものないのか、少しでも興味のあるものはないのかと熱い眼差しで見つめられ、何も無い自分がとても駄目だと言われているような気がした。あの時、絞り出すように看護婦さん、と答えた。母が看護婦さんなら女性も稼げていいねと言っていたことがあるからで、それぐらいしか知らないというだけだった。そんなことは知らない奥谷先生は、いいじゃないか! と梓の肩を叩き、黄色い大きな歯をむき出しにして嬉しそうな笑みをこぼした。先生は背に触れた手で梓を優しく出口へ誘導しながら、次は山口君を呼ぶように言った。まさか本当に看護師になるとは思わなかった。それ以上に、毎日こう何人もの老人の裸を見たり、尻に軟膏を塗ることになるなんて、思いもしなかった。

 梓の通う小学校は、線路を跨ぐ橋を渡った先の急な坂の上にあった。

 転勤族だった父の都合で、通い始めたのは三年生からだった。周囲には畑があって、堆肥の発酵した匂いがして、冬は凍って滑るのが怖かったが、下校中にほんの時々通る電車を橋の上から眺めるのが好きだった。

 小学三年生の春、梓たち一家は建ってから十年目の大きなマンションに引っ越した。父の転勤もひと段落つき、梓の両親は建ったばかりの頃には手の届かない値段だったこのマンションを終のすみかに決めたのだった。

 梓はそこで美幸ちゃんに会った。美幸ちゃんは、マンションで唯一同じ学年の女の子だった。梓が引っ越して来たことを美幸ちゃんはとても喜んでくれた。美幸ちゃんは勉強も運動もできて友人も多い、クラスでも目立つ存在だった。美幸ちゃんのおかげで、梓はすぐに学校に馴染んだ。毎日登下校を共にし、美幸ちゃんの家で一緒に宿題をし、マンションで管理している公園で一緒に遊んだ。美幸ちゃんは自分で描いた漫画を内緒だよと梓にだけ見せてくれ、漫画家になりたいんだと教えてくれた。学校に慣れ、美幸ちゃんと過ごす時間が長くなるにつれ、前の学校の友人たちとの文通はいつしか途絶えた。休日は美幸ちゃんの家に行ってゲームをしたり漫画を読んだり、自転車に乗ってスーパーにお菓子を買いに行くこともあった。美幸ちゃんには年の離れた兄が二人いて、家に行ったときに挨拶をする歳の近い方の兄に、梓は淡い憧れの気持ちも抱いていた。夕方になると美幸ちゃんは、パートに出ているお母さんに代わってカレーを作り始めることもあった。手伝いといえば洗濯物たたみくらいの梓には、美幸ちゃんが自分よりずっと大人に見えた。

 四年生で美幸ちゃんとクラスが分かれたことは不運だった。担任の柳瀬先生は綺麗で優しいと評判だったけれど、梓にとっては優しい先生ではなかった。梓は給食が苦手だった。神経質な梓は、母以外の作る、見慣れないものを生理的に受け付けないところがあった。給食の時間が終わって、中身の残っている皿を前に気まずそうな顔を浮かべる数人の子供たちはいつも同じ顔ぶれで、先生はとりわけ梓に厳しかった。子供たちに下膳の許可を与える前の小言に、好井さんが一番多い、といつでも彼女は梓の皿を一瞥して付け加えた。斜め後ろの席の藤堂さんが、カレーのにんじんとサラダのトマトを選り分けて残している時でさえも。そして鍋に戻した残飯を給食室へ運ぶよう命じた。ワゴンは使わず、手に提げて運ぶ決まりだった。残飯は驚くほど重く、ぐるぐる捻ってある金属の持ち手は指に食い込み、いつまでも跡に残った。鍋を給食のおばちゃんに渡し、残してごめんなさいと頭を下げるまでが、柳瀬先生が決めた残飯係の役目だった。あらあらいいのよしょうがないわよ、と憐れみの目を向ける給食のおばちゃんにうまく返事ができないまま、梓は掃除の音楽が鳴る廊下を足早に戻ったものだった。

 ある時、事件が起きた。その日給食当番だった梓は、魚のフライの入った食缶を給食室から運ぶ途中、階段につまずいてひっくり返してしまった。食缶から落ちなかったほんの一部も、慌てて拾い集めたフライを食缶に戻したせいで、どれが落ちたものでどれが落ちていないものかわからなくなった。階段の踊り場で座り込んで、油まみれの手でフライを拾う梓を同じ給食当番の森さんが見つけ、慌てて先生を呼びに行った。

 やって来た柳瀬先生は、あーあ、と責めるような溜息をついた。「食べ物を粗末にしたら罰が当たるのよ」梓は俯いた。先生は細く綺麗な指先で、汚いものを摘むようにフライを拾った。「これは給食先生がみんなのために一生懸命作ってくれたんだよ。みんなの給食がなくなったんだから、みんなに謝ろう」先生は淡々とした冷たい声で言った。

 他のクラスからかき集めても到底足りず、梓のクラスだけみんな平等に魚のフライのない給食を食べることになった。戻さなければまだなんとかなったかもしれないのに。柳瀬先生は梓に聞こえるように呟いた。みんなの給食を落としてごめんなさい。教卓の前に立って頭を下げると涙が溢れた。誰も何も言わずしんとしていた。戻っていいよと柳瀬先生が言うまでの何秒かがひどく長く感じた。梓が泣きながら席に戻ると、いいよ俺魚嫌いだから、と村田くんはこっそり言ってくれた。同じ班の金本くんは「魚のフライが落ちたの歌」を梓をチラチラ見ながら歌っては庄後さんと笑い合い、俺、落ちたのでもいいよ、落ちたのでも食べたい、と繰り返す篠原くんは柳瀬先生に嗜められ、えー、なんで、俺腹強いから大丈夫だよ、と食い下がっていた。

 悪いことに、翌日はみんなの好きなハンバーグだった。「好井にやらすのやめとこうぜ、落とすかも」と言ったのは金本くんだが、それを否定する人もいなかった。梓は給食当番を外されることになった。班のみんなが当番をしている時間、牛乳パックを配り終えた梓は、向かい合わせにした班机に一人ポツンと座っていた。配膳が始まって列に並ぶと、金本くんはトングで梓の皿にきゅうりの胡麻和えを乗せながら、こぼすなよ、と怖い顔で言った。

 すっかり落ち込んだ梓の代わりに怒ってくれたのは美幸ちゃんだった。

 魚のフライ事件から数日が経ったある日の下校中のことだった。梓は後ろから騒ぎながら追いついてくる金本くんたちの気配に気づいた。急に話すのをやめた梓を、美幸ちゃんがどうしたのと不審げに覗き込むのと、金本くんが追いつくのはほとんど同じタイミングだった。金本くんは案の定追い抜きざまに悪態をついて笑いながら駆け出し、次の瞬間、俯いた梓の視界に、飛び出す美幸ちゃんの姿が見えた。驚いて顔を上げると、金本くんとの距離を縮めていく美幸ちゃんの背中のランドセルが、大きく上下に揺れるのに目を奪われた。美幸ちゃんはあっという間に追いついて金本くんのランドセルを掴み、両手で力いっぱい揺さぶった。右に左によろけながら金本くんはニヤニヤと笑みを浮かべ、その実、目は面食らったように泳いでいた。逃げていく金本くんは懲りずにバカ、ブス、と繰り返していたけれど、それ以来梓が絡まれることはなくなった。梓は美幸ちゃんがいれば平気だった。

 うっかり窓を開けたまま眠って、明け方に寒さで目を覚ました。窓を閉めてもう一眠りして起き、何時だろうとスマホを見ると思いのほか時間がすぎている。早めに起きてのんびりしようと思っていた梓は落胆して布団の中で背を丸める。今日は母と約束をしているから、もう支度を始めなければならないが、起き上がる気力が湧くまでと先送りにしてスマホの電源を点けた。毎日何話かだけ無料で読める漫画を見て、SNSを見て、フリマアプリサイトを見て、見るものがなくなって諦めてベッドから降りる。昨日の残りの麻婆豆腐で朝食を済ませ、ジーンズとニットに着替える。休みの日の化粧は眉しか書かない。車のエンジンをかけ、今から出ると母にメッセージを送る。

 平日はいつも出勤ラッシュで混雑する国道はまだ空いていた。バイパスに乗り、父の暮らす実家とは反対方向へ向かう。トンネルを過ぎ、車の少ない真っ直ぐな道を走っていると、このままどこへでもいけるような感覚に駆られる。知らない土地に一人きりになっても、どこでも根付いていけるような。こんな時はいつも気分がいい。

 実家を出る時にはほとんどペーパードライバーだった梓にとって、この車を買ったことは冒険だった。梓の住むアパートのすぐ近く、ドラッグストアや駅に通じる通り沿いにある車屋の店前に、いつからかこの車は鎮座していた。周りよりも二回りは安い値付けで派手なポップで彩られ、車体は銅色と黄緑色を混ぜたような甲殻虫を彷彿とさせる何とも言えない色合いをしていて、だから安いのかと横目で見たのが最初だった。それから長い間、車はそこにあった。まだあるなと思いながら車屋の前を通り、そのうち車があるのを確認するのが休日の日課になった。あると、なぜだかふふっと笑えた。この安いのにずっと売れない、変な色の車がなくなったら、寂しいだろうと思った。

 ある日、ドラッグストアからの帰り道にふと思い立ち、買った菓子と洗剤とパンが入った袋を提げたまま車屋に入った。出されたアイスコーヒーを半分飲んだ頃やって来た営業担当は、梓が交渉するよりも前に、少しなら値下げできますよと言った。その日のうちに契約した。今キャンペーン中なんでと渡された一斤の食パンはスライスして冷凍庫に入れ、仕事に行く前に毎日一枚ずつ食べた。デニッシュ風のふわふわでおいしいパンで、今度買おうと思って時々思い出していたのに、先送りにしているうち、今となってはどこのパンだったのか思い出せない。

 梓の母は車の運転ができない。その理由を、若い頃は都会にいたからと母は言った。今更乗り始めて事故するのも怖いじゃない、と何かの折にそんな話をした。母が車を運転できないことで、そんなに不便はなかった。幼稚園は手を引かれて通ったし、習い事は同じマンション内のピアノ教室で、買い物には自転車で行った。梓は母の自転車の後ろに乗るのが好きだった。大きくなって真っ先に寂しさを覚えたのは、もう母の自転車の後ろには二度と乗れないのだと気付いたことだった。

 母は月に一度、祖母がデイサービスで出かける土曜日に車を出してくれと梓に頼む。行き先はいつも同じ、祖母の家から車で三十分ほどの、地元では大きな神社だ。

 祖母の家の庭には粒の大きな土が敷き詰められ、車を入れるとザリザリと音がする。柿の木の下に車を止め、車の上に落ちるなよ、と柿の木を見上げてひと睨みし、熟れて地面に落ちた柿をまたぐ。祖母はもう出かけていて、家には母一人がいるはずだ。居間の電気は消えて薄暗く、母の姿は無い。裏庭に回ると洗濯を干している後ろ姿を見つけた。昔は長かったのに、もうずっと短くしている髪の襟足が不規則にはねている。

「おはよう。終わったらもう出る?」梓に気付いて振り向いた母に尋ねる。

「うん、もう終わるよ。あんた朝ごはん食べた? パンあるよ、机の上」母は祖母の肌色の下着を洗濯バサミに留めながら言う。

「食べたよ。ばあちゃんはもう行ったんだよね」

「行った行った」

 もう化粧を済ませたらしく、眉を描いた跡を見つける。眉尻に伸びる茶色い線が、本来の眉から浮いている。

 梓の父が定年退職して、祖母の体が弱り始めた五年ほど前から、梓の母は祖母の家で暮らし始めた。ばあちゃんも歳だからお母さん向こうにしばらく行こうと思う、とでも梓はその理由を聞いた気がする。父と母の間でどんな話し合いがされたのかはわからない。

 母を乗せる車の中では、ランダム再生のプレイリストを流す。梓も、学生の頃は今では廃れてしまったCDやMDを友達と交換し、流行りの音楽も聞いていた。昔よく聞いていた曲が流れると、過去の未熟だった自分や重ねた恥が頭に上ってくるような気がして、ムズムズして落ち着かない。母は何も知らず、これほんとよく聞いてたよね、と懐かしそうに笑い混じりに言う。今でも梓がこの曲を好んで聞いていると思っている、母の鈍感に梓は少し苛立つ。

 道中で、母は祖母と出かけた蕎麦屋の話をした。目の見えない店主が打つ蕎麦で、蕎麦の香りがしっかりして美味しいんだと母は言った。店主の目が見えないということが、母にとってのその店を特別にしているように思え、梓はいいねえと相槌を打ちながら、母のそんなところが嫌いなんだと考えていた。梓の反応が乏しいせいで、すぐに話題は途切れた。子供の頃はあんなに話すことが尽きなかったのに、今は楽しい話も愚痴も、何を話しても後悔する気がして口をつぐんでしまう。そんな時母は、梓の仕事について尋ねる。どんな調子なのか、働き始めて何年経ったのか。梓が答えると、母はもうそんなになるのね、すごいねとしきりに言った。

 神社の駐車場は思ったよりも混んでいた。「七五三が近いからね」母が言う。「あんたもここでしたよ、七五三」覚えているはずもないが、従姉妹たちと撮った写真をアルバムで見たことがある。会えばいつも彼氏の話ばかりしていた有希ちゃん、宿題をしないでよくおばさんを怒らせていた聡太くん。二人とも結婚して子供ができ、疎遠になった。あの頃、梓よりもずっと祖母に興味がなさそうだったのに、今は子供を連れて時々泊まりに来るらしい。いつの間にそんなふうに大人になって、当たり前のように人に優しくできるようになるんだろう。子供ができれば自然に、そんな大人の振る舞いができるようになるのだろうか。カメラなんて気にせずあさっての方向を見ている子供たちに、笑顔の従姉妹と母、その真ん中に写真慣れしていない祖母が真顔でいる写真を母に見せられたのは先月のことだった。

 祈祷の客たちがまばらに座る待合室で、梓と母は並んで座った。何を話すでもなく、ぼんやり行き交う人たちを見る。慣れない様子の若い巫女さんが来て案内を言うと、座っていた人たちが鞄を掛け直したりしながらばらばらと立ち上がり、それが一段落して母もよいしょと立ち上がる。母の後ろ姿が扉の向こうの本殿に消え、しばらくして太鼓の音が聞こえた。参道を行き交う人たちが、何が始まったのかという顔で社殿の方を振り返る。

 梓はどうして暇を潰そうかと参道に出るが、目ぼしいものはソフトクリームと甘酒ののぼりが出ている小さな売店くらいしかない。土産物も何度か来るうちに見飽きているし、たいしてほしくもないものを飲み食いするのも勿体無い。ふと顔を上げると、前から歩いてくる水色の鮮やかな着物を着た女の子に目を引かれた。クルクルと巻かれた後ろ髪に、綺麗な蝶の飾りがついている。女の子は下駄での足捌きに苦労しながら、両親に手を引かれて階段を登っていく。

 子供の七五三の準備をしなければと職場の人たちが話していたことを思い出す。もう三歳になるんだね、早いねえ、と答えた職員は三人の子どものシングルマザーだ。子供が熱を出せば仕事を休み、夕食のことで頭を悩ませ、テレビを見る暇もないと言い、スマホの待受には三人兄弟が並ぶ。自分ではない誰かにあれほど時間と心を費やす姿が梓には異世界のことのように思える。すごいと尊敬もするけれど、ああはなりたくないとも思う。同じ職場で何年働いてもいまだに雑談さえ気楽にできないのは、その埋められない溝を、彼女らに気づかれるのを恐れているせいもあるのかもしれない。

 祈祷を終え本殿から出てきた母が、梓を見つけて足を早める。母の肩越しに、あの水色の着物の女の子が本殿に入っていくのを見つける。梓は母が何を祈っているのか知らない。けれど内心、この執着とも言える習慣を薄気味悪く思っている。その薄気味悪さが梓に思わせる。母は祖母が死なないように祈っているのではないか。

 母が祖母の下着を買いたいと言い、帰りはショッピングモールに寄った。寂れたショッピングモールは、それでも周りに他の店がないせいか賑わっていた。チェーンのバーガーショップやドーナツ屋、百円均一にも家族連れが目立つ。

「あんたはなんか買うものないの」母が言い、梓は店頭で安売りされている帽子や鞄やスカーフを見渡しながら「ないよ」と答える。祖母に頼まれたというショーツと自分のブラジャーをレジで袋に入れてもらっている母の後ろ姿を見ていると、祖母と母の暮らしを覗くような気持ちがした。

 帰りの車中の助手席で、母は買った弁当を膝に乗せ、祈祷の後に渡された紙袋の中から、もう見飽きただろうお札を取り出して表にしたり裏返したりして眺める。

「最近お父さんと会った?」

 梓が尋ねると、顔を上げ、少し考えるような仕草を見せる。

「ちょっと前にね。野菜やら貰い物が多くてね、持って行ったの。ワキタの人と釣り行ったり楽しくしてるみたいよ」ワキタは、父の勤めていた会社の名前だ。

「この間台風あったじゃん。あっちのほう酷かったみたいだけど」

「何も言ってなかったから大丈夫だったんじゃない」

 母は父のことをあまり話したがらない。さっき買った下着があのショッピングモールにしかなくて、どんなところがいいとか、祖母に勧めたら気に入ったのだとか、そんな話をする。

 母は飾りタンスの引き戸の中に、お札を立てて置いた。隣には今までもらったお札が几帳面に並べてある。一年分溜まったら炊き上げているといつか話した。梓は電子レンジに弁当を入れてあたためのボタンを押し、稼働音を聞きながらテレビの電源を入れる。ダイニングテーブルに座り、最近よく見るタレントが沢山出ている番組にチャンネルを合わせ、レトルトのしじみの味噌汁に湯を注ぐ母の背中を眺めた。勝手口から差し込む光に照らされ、母は祖母の家の風景にすっかり馴染んでいる。背中は少し丸まり、巻き込んだ肩が小さく見える。昔はあまり似ていると思わなかったのに、年々祖母と母は似てくる。帰りの車中で、祖母の介護度が要支援1から要支援2になったと聞いた。デイサービスに通える日は増えたんだけどね、と母はその先は言わなかったが、複雑な思いが透けて見えた。いつもしゃんとして孫にも甘くはなかった祖母も、いつかは施設の老人たちみたいになるのかもしれない。

 梓が帰り支度をしていると、母はつっかけを履いて外に出て、凸凹の形に膨らんだ重そうなビニール袋を提げて戻ってきた。中には今庭からもいできたのだろう大ぶりの柿がいくつも入っている。先週職場の人からもらったばかりなのに、そんなに食べないよ。梓が言うと、近所の人にあげたら、とわかっていないことを言う。仮住まいの人ばかりのアパートで、人見知りの梓に、柿を配る知り合いがいるはずもない。母は昔からこういうところがある。梓を大事にはしてくれるのに、梓自身を見ていないようなずれたことを言う。母は違うものを見ている。それは母の都合の良いようにねじ曲げられた姿である気がする。

 屈んで靴を履いている梓の後ろに立って「仕事頑張ってね」と言う母には答えず、梓は柿の入ったビニール袋を車に乗せた。母は茶色のダウンベストを着て、足元は寒そうなつっかけ姿で、「出たところの溝、落ちないようにするのよ」と梓の車が門の外を曲がりきるまで、心配げに右に回ったり左に回ったりして車の動きを見ていた。父と母と梓でこの家を訪ねた時、祖母もそうしていたように。

 梓は一度だけ祖母の家に一人で泊まりに来たことがある。小学四年生の夏だった。

 友希ちゃんもいれば二人で楽しいんじゃないと母たちに乗せられて、母の妹の子である友希ちゃんも来て、一週間くらい一緒に過ごした。母に何度も教えられた乗り継ぎの駅で電車を待つ間、不安で所在なくて仕方がなかった。あの頃はまだ祖父も存命で、最寄り駅まで車で迎えに来てくれ、改札前に立つ祖父のよく太って血色の良い顔を見つけて安堵したことを覚えている。友希ちゃんは次の日に来た。宿題を早々に切り上げてテレビゲームをし、田んぼの畦道を歩いてスーパーへ行き、帰り道はアイスを食べながら帰った。あの夏を思い出すとき、祖母に褒められた水色のストライプ柄ワンピースが頭に浮かぶ。同じタオルケットに包まりながら、友希ちゃんと二人でクラスの男の子の話や親には言えない内緒話もした。また二人だけで来ようねと友希ちゃんと話したのに、あれが最初で最後になった。

 四年生が終わる頃には美幸ちゃんのおかげもあって、金田くんたちは魚のフライ事件について何も言わなくなっていた。席が変わって班も変わり、学級内でいくつかの小さな事件が起きて、梓自身も思い出すことがなくなった。もうすぐ四年生が終わる、そうすれば美幸ちゃんとまた同じクラスになるかもしれないし、担任も他の教師に変わるはずだと、梓が指折り数えている頃、柳瀬先生が結婚を機に退職すると聞いた。

 柳瀬先生の結婚相手は六年生の担任の畑野先生だった。柳瀬先生は畑野先生と揃って教壇に立ち、お別れの挨拶をした。柳瀬先生の好きなところを教えてくださいと誰かが言った。

「白いご飯を食べるときに、お茶碗の中のお米を一粒残さず拾って食べるところ。柳瀬先生のおうちは農家だから、食べ物を大事にって育てられたんだって。素敵な人だと思いました」

 いつも乱暴な物言いをする畑野先生なのに、照れ隠しなのかどこか芝居がかった口調で言った。何人かが囃し立て、柳瀬先生は照れたように顔を伏せ、クックッと絞り出すように笑った。伏せた顔を上げるまでの一瞬、長く垂らした前髪の隙間から覗いた目が梓を捉え、すっと細くなった。魚のフライを落とした時の、残った給食を見て好井さんが一番多いと言う時のあの目だった。あ、と思った次の瞬間には、柳瀬先生は顔をくしゃくしゃにした笑顔で、恥ずかしいからやめてよと畑野先生を小突いていた。

 生理になったのはそれからそう経たないうちだった。休み時間のトイレで、下着にうっすらと血の染みを見つけた梓は、腹が痛いと嘘をついて保健室に行った。白衣を着た保健の丸谷先生は、あらそうなの、と急にすごい笑顔になって、体調は大丈夫? と優しく梓の肩を触った。白い棚の引き出しを開け、ナプキンをふたつと、「生理が来たあなたへ」と書いた冊子をくれた。

 母はちょっと驚いた顔をした後、良かったわねと言った。早いね、お母さんは中学生になってからだったよ。そう言われて、梓は母より早いことがなぜかとても恥ずかしくて、そんなことを言う母が嫌だった。

 母は夕食の準備を中断し、梓をドラッグストアに連れて行った。まずナプキンとショーツをカゴに入れ、他の棚の間を足早に見回って、洗濯洗剤に食器洗いスポンジ、ゴム手袋もカゴに入れた。家に帰って、母がパッケージから出してくれたグレーのショーツは飾りも何もない簡素なものだった。内心がっかりした。少し前に、同じクラスの森さんが、生理になったことを教えてくれていた。森さんのお母さんはピンクのレースがついたショーツを準備していてくれて、今それを履いてるんだ、と森さんは梓に耳打ちした。だから梓は、梓の母はどんなふうに準備してくれているのだろうと想像を巡らせていたのだった。

 買い物行ってたのか。帰宅していた父に問われ、母はうん、そうなのと濁した。色付きのレジ袋から取り出したナプキンをさっと戸棚に移す母のすました顔を見て、先生たちは良いことなんだよと言っていたけれど、母は良かったねと言ったけれど、やっぱりこれは知られるとまずいことなんだと梓は思った。

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