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罰当たりの娘 3(文學界一次落ち)

 梓の進学した中学校は小学校からそのまま進学した子が多かったから、美幸ちゃんがいなくても孤立することはなかった。それなりに新しい友人もできた。部活には入らなかった。運動は苦手だし、絵を描くのも裁縫も得意じゃないし、楽器にも興味がなかった。毎日、ホームルームが終わって教室の掃除が始まり、部活に行く前の時間を持て余す生徒たちでごった返す廊下を抜け、真っ直ぐ家に帰った。

 梓の母は梓が物心つく頃にはパートで、梓が大きくなってからはフルタイムで働いていた。母が帰ってくるまで、梓は毎日テレビアニメを見ながら宿題をして過ごした。冬にはこたつに潜り込んで帰り道に買ったアイスを食べたり、友達から借りた漫画を読んだり、一人で過ごす時間が好きだった。母が帰ってくると台所に立つ母の隣で、学校の友人の噂話や愚痴を話した。あの子はこんな子で、ここは好きでここは嫌いなんだと普段は誰にも言えない話を母にはできた。母は梓の言うことはなんでも信じてくれて、いつでも否定せずに梓の話を聴いてくれた。話すのは梓ばかりで、母はいつも聞き役だった。

 そんな母は時々、昔の思い出話をすることがあった。そのひとつが、父が単身赴任して、母と梓の二人で暮らした一年間の話だ。後でわかったんだけど、お父さん、自分で希望出してたのよ。単身赴任なっちゃったよ、なんて白々しく言って。でもお母さんはかえって楽しかったわ、梓とふたりで好きな時間にごろごろしたりおやつ食べたり出かけたりしてね。と最後は梓を優しい目で見つめ、頭を撫でてくれることもあった。

 二人で暮らした頃からずっと、梓と母はベッドを並べて一緒に寝ていた。

「変なの。普通は親が一緒に寝るんだよ。私は七歳くらいから一人だし。もう親と一緒とかなくない?」

 そう言った園山さんは、色白で茶色がかった髪の女の子だった。小学校も一緒だったけれど、同じクラスになったことはなく、中学に上がってから話すようになった。中学生になるとだんだん自分の容姿の程度がわかってきて、それがクラスでの立ち位置や人間関係に関わってくる。園山さんと梓は一緒にいる友人も立ち位置も違った。入学して間もなく、他のクラスの男の子たちが、園山さんが可愛いと噂しているのを聞いたことがある。少し離れた場所で友達と話していた園山さんはきっと気づいているのに気づかないふりをして、そういうことに慣れているみたいだった。学校には染髪禁止の校則があり、園山さんが地毛証明を出していると話していたことが、梓には特別に見えて羨ましかった。

「だって昔からそうしてるから」

「じゃあお父さんはどこで寝るの?」

「余ってる部屋で寝てる」

「お父さん仲間外れじゃん」

「そういうわけじゃないよ。自由に寝られていいって」

「お父さんがそう言ってたの?」

「ううん、お母さんだけど」

 アハハ、と園山さんが高い声で笑った。

「なんだ。もしかして梓ちゃんってマザコン? それで、梓ちゃんちって仮面夫婦?」

 梓は仮面夫婦という言葉を知らなかったけれど、良くない意味で言われたことだけはわかった。曖昧に笑って誤魔化し、

「それにお父さんいびきかくもん」

 慌てて言ったが、園山さんはもう興味を無くしたようで、ふーんと生返事をして顔周りに残した後れ毛を指で弄り、はっと顔を上げると、あ、ざきちゃん、ねえねえ、と声を上げた。ほいほい、とざきちゃんと呼ばれた篠崎さんが駆けて来て、今日の部活さあ、と園山さんは梓がもういないみたいに話し始める。園山さんとは同じ小学校のよしみがあるが、篠崎さんと園山さんが醸し出す仲の良い雰囲気に梓は混ざれない。梓は園山さんに気付かれないようにそっと自分の席に向き直り、次の授業の課題の確認を始めた。

 梓たち母娘は、実際仲が良かった。梓はその日学校であったこと、友達について思うことなど母に何でも話した。小さな頃、一緒に眠りながら母に抱きしめられて、ずっと一緒にいてねと言われると嬉しかった。母は時々、お母さんのこと好き? と梓に聞くことがあった。大きくなるにつれ、面倒に思うこともあったが、いつでも梓は好きだよと返した。

 でも、梓は母にはあまり似ず父に似ていた。時々法事で会う親戚や近所の人や家庭訪問に来た教師は、微笑ましそうに梓をじっと見つめて、梓ちゃんはお父さんによく似てるね、女の子はそのほうが幸せになるのよ、と母の顔が曇っていることも知らず口にした。梓は父のことも好きだったけれど、お父さんに似ているねと言われる度、母が自分を好きな気持ちが目減りするのではと気が気でなかった。

 母と父が仲が良い夫婦でないことは、園山さんに言われる前から気づいていた。しかし中学生になった梓も、父にうっすらとした嫌悪感を抱き始めていた。やだねお父さん、太って。やだねお父さん、パンツで。母は父に聞こえないように梓に言い、梓も同じように思った。

 梓は顔だけではなく、体質も父に似た。最初に指摘したのは同じクラスの斉藤さんだった。何人かで話していた時、急に気づいたように彼女は、「あれ、好井さんちょっと太った?」と梓の頬を摘んだのだった。斎藤さんは少しぽっちゃりした子だったから、お前が言うなと誰かが茶化して、その場はうやむやになった。みんな笑っていたのに、梓だけ心臓がドキドキしてうまく笑えなかった。いつぶりか覚えていないくらい久しぶりに体重計に乗ると、確かに増えていた。その日から梓はお菓子を我慢して夕食も母に気づかれないように食べる量を減らし、何とか体重を戻した。それでも母がテレビを見て、あの人太ったねと言う度にヒヤリとした。母がこの子は太ったなと思う瞬間、梓が父に似ていると言われた時のように母はがっかりするだろうと思った。

 梓の体は丸みを帯び、胸はいつしか母よりも大きくなった。

 梓の体が変わっていくのと同じく、同じ小学校だった子どもたちも、以前とは変わった。金本くんは野球に打ち込み、大会にも出て時には朝礼で表彰され、女子に絡むなんてことはなくなったし、髪型も振る舞いも男子みたいだった矢辺さんには入学後間もなく彼氏ができた。明るくて足が早くて、目立つ存在だった檜山くんはいつからか教室の隅でひっそりとして、庄後さんは親が離婚して佐藤さんになり、しばらくして引っ越して行った。あの時魚のフライを一緒に拾ってくれた森さんは小学生の時より少しふっくらとして、おっとりとしたところは変わりなく、中学でも梓の友達だった。一度、森さんが、胸が大きいと男子に噂され、それを一部の女子に囃されて、泣いてしまった事があった。そんなふうに小さな事件は時々起こった。

 小野原さんが不登校になったと、梓に教えてくれたのは森さんだった。小野原さんは美幸ちゃんと同じ中学校に進学した数少ない子のうちのひとりだった。

「美幸ちゃんと揉めたんだって。小野原さんが授業中キレちゃったらしい」

 森さんはそう教えてくれた。小野原さんはのんびりした温厚な子で、キレるなんて想像がつかなかった。しかし、確かに美幸ちゃんは小学生の頃から小野原さんを嫌っていた。梓は美幸ちゃんに「小野原さんと仲良くしないでよ」と言われたことがあった。梓が何かの折に小野原さんと親しくなって、よく話すようになった頃だ。小野原さんと話していると、理由を作って美幸ちゃんに連れ出されることもあった。森さんに「美幸ちゃんは梓ちゃんが好きだから、取られたくないんだよ」と言われたことがある。そう言われると梓は、小野原さんをかわいそうに思うより、美幸ちゃんが嫉妬するほど必要とされている自分が誇らしかった。でもきっと理由はそれだけではなくて、美幸ちゃんは自分の友人が、見下している子と仲良くしているのが気に入らなかったんだろう。小野原さんは太っていて色黒で目は細くて、お世辞にもかわいい子ではなかったからだ。

 美幸ちゃんの機嫌を損ねたくなかったせいもあるけれど、自然に小野原さんと話すことはなくなった。それから卒業までの小野原さんがどうしていたのか、抜け落ちたように記憶がない。しかし、卒業後にふと開いた卒業文集の小野原さんのページに偶然目が留まり、彼女が警察官になりたいと書いていたことを、梓はなぜだかずっと覚えている。

 森さんから話を聞いて何ヶ月か経ったある休日、小野原さんと偶然会った。声をかけたのは梓だ。振り返った小野原さんの警戒心を滲ませた目を見て、小野原さんが梓に気づいていたのに知らぬふりで通り過ぎようとしたことがわかった。そして、森さんから聞いた不登校のことを思い出した。

 声を掛けない方が良かったのかもしれない。それでも何か言わずに去ることはできない。梓は気まずさを誤魔化すように饒舌になり、聞かれてもいないのに同じ小学校の子達の近況を話した。矢辺さんに彼氏ができたこと、檜山くんが陰キャになったこと、金本くんの野球での活躍。庄後さんの苗字が変わったことは、頭に浮かんだが言わなかった。小野原さんの反応は薄かった。

「美幸ちゃんから聞いた?」梓の一方的な話が途切れた頃、ようやくまともに小野原さんが喋った。

「ううん、何も聞いてないと思うけど」梓は惚けた。

「私、学校そっちに変わるんだ」

「えー、そうなんだ」梓は思わず知らないふりをする。「何月から? 同じクラスだったらいいね」

 あっ、私のクラス森さんもいるんだよ、と梓が言い募るのを遮るように、小野原さんは、唐突に笑った。梓は驚いて小野原さんの顔を見た。弾けるような笑い声とは裏腹に小野原さんの表情は強張っていた。

「いいよ、知らないふりしててよ。また美幸ちゃんに怒られるよ。小学生の時、私と仲良くするなって言われてたじゃん。もう関わらない方がいいよ、お互いに」

 小野原さんは梓から顔を逸らした。

 別れ際は、わかった、じゃあね、とでも言った気がするが、早くその場を離れたくて慌てていたから、よく覚えていない。

 線路を渡り、梓は小野原さんに気づかれないようチラチラと振り返った。梓の警戒とは裏腹に小野原さんは振り返る気配もなく、背の丸まった後ろ姿がゆっくり遠ざかった。小野原さんは本当に変わっていない。中学生になれば、皆、見た目を整えるようになって、それができない人は舐められたり、嫌われたりする。梓の学校でもそんな空気はある。あんな風に見た目を構わないから美幸ちゃんに嫌われるんじゃないか、不登校になるなんて可哀想に。浮かんだのはどれも表には出さない本音だった。

 二年生の春、小野原さんは隣のクラスに編入してきた。同じクラスにならなくて梓はほっとした。森さんは「なんか小野原さん変わったね」と含みのある言い方を一度したきりで、もう話題に出ることもなかった。もちろん梓は小野原さんに関わらなかった。関わらない方がいいよ、お互いに、と小野原さんは言った。小野原さんは美幸ちゃんとのトラブルを、幾らかは梓のせいだと思っているのかもしれない。恨むなら美幸ちゃんだろうに、なんであんなふうに言われないといけないんだと、日が経つにつれふつふつと怒りが湧き、いつもひとりでいる小野原さんを見ても同情する気にはなれなかった。そのうち受験で慌ただしくなって、小野原さんのことを思い出すことも無くなった。

 梓は美幸ちゃんと同じ高校に合格した。

 卒業式を終えた春休みのことだった。ベッドに寝転がって漫画を読んでいると、スマホが震えた。メッセージは美幸ちゃんからで、「今暇なら来ない?」とあった。梓は急いでベッドを降り、部屋着から少しまともな格好に着替えると、リビングにいた母に声をかけて家を出た。

 玄関のドアを開けてくれた美幸ちゃんは上下スエット姿で、下ろした長い髪がさっきまで寝ていたみたいに乱れていた。いつもよりテンションの低い美幸ちゃんは不機嫌に見え、もっと歓迎してくれると思っていた梓は、誘ってくれた嬉しさが萎んでいくのを感じながら、美幸ちゃんに踏まれて凹んだままのスニーカーを跨いだ。

 適当に座っててと梓に言い置いて美幸ちゃんが台所に行ってしまうと、梓は美幸ちゃんが食器棚や冷蔵庫を開け閉めする音を聞きながら、部屋の様子に目を走らせた。散らかってはいるけれど、以前より物が少なくなったような気がする。そういえば美幸ちゃんの兄たちはそれぞれ大学に進学し家を出たのだと思い当たった。

「ゲームする?」

 美幸ちゃんは梓の返事も聞かずテレビを点けた。

 テレビの棚には、美幸ちゃんの兄たちが置いていったらしいゲーム機が三つ四つ、埃をかぶり、どのものともわからないコードがあちこちから伸びていた。美幸ちゃんが四つん這いになって手を伸ばしてスイッチを押すと、昔、何度も一緒にやったゲームのオープニングムービーが流れる。美幸ちゃんはそれを慣れた操作で飛ばし、梓にコントローラーを渡した。いつもは先に美幸ちゃんがやって途中から梓が交代するのに、珍しいなと思った。主人公の逆三角の目、丸く大きな鼻、への字に曲がった口は、梓と美幸ちゃんが小学生の頃に「ブサイク、ブサイク」と笑いながら選んだものだ。大笑いしながらつけた妙な名前も、なんであんなにおかしかったんだろう。時間が経ってみれば話題に出すのすら恥ずかしい。

 美幸ちゃんはいつになく口数が少なくスマホに目を落としたきりで、あ、このキャラ可愛い、という梓の呟きにも返事がない。でも、下手に口を出すと喧嘩になることは目に見えている。梓は気にしていないふりでゲームを楽しむことにする。キャラクターのお願い事をこなし、お礼にもらった服に着替え、部屋を改造するべく、ショップに通い詰める。そのうち、美幸ちゃんはスマホを触りながら、学校での出来事について話し始める。修学旅行の思い出や、卒業を前に彼氏と自然消滅したこと、いつもつるんでいる子の悪口。自分で話しながらおかしくなって笑い出してしまう美幸ちゃんの癖は変わらない。美幸ちゃんの機嫌が直ったことにホッとして梓は愛想よく相槌を打った。笑い合って急に会話が途切れた時だった。ゲームの主人公が海に映る魚影に釣り糸を垂れ、魚を釣り上げた瞬間、美幸ちゃんは「うちの親離婚するんだ」と呟いた。

 梓は、えっ、と声をあげ、美幸ちゃんを見た。

「うそっ、ほんとに?」

 美幸ちゃんはスマホを操作しながら、うん、と言った。ゲーム画面では主人公が鮮やかな青色の魚を掲げてポーズを決め、新記録の文字がキラキラと踊っていた。

 離婚という言葉は梓にとって、自分から遠い、気まずくて、不幸なことだった。あの家、離婚して空き家になったんだって。新しい人が入ったんだって、小さい子供がいるみたいだよ。などと母が近所の噂を言うことがあった。大して交流もない人なのに、なぜ母があんなに関心を持つのか、何となく嫌な気持ちで聞いていた。そういえば、小学校が同じだった庄後さんは、親が離婚して佐藤さんになり、そのうち引っ越していくまで何だか気まずくて名前が呼べなかった。

 美幸ちゃんの両親が不仲であることは知っていた。母から、美幸ちゃんのお父さんはあまり家に帰ってこないと聞いたことがあったからだ。梓は遊園地に一緒に来たお姉さんのことを思い出した。あれはなんだったんだろうという違和感は拭えないまま、日が経つにつれ膨らみ、いつからか、お姉さんは美幸ちゃんのお父さんの恋人なのではないかと思うようになっていた。

 別に、と美幸ちゃんは大きな声で言った。

「早くすればいいのにって思ってたからいいんだ。私はここに残るから関係ないし」

「そっか良かった。美幸ちゃんがいなくなると寂しいもん」

 慰めるつもりで、梓は驚きを隠して明るく笑った。美幸ちゃんは少しも笑わずに、

「お母さんはもう引っ越した」

「え、お父さんと暮らすの?」それは梓には意外なことだった。「何で? お母さんと仲良いのに」

 美幸ちゃんはスマホから顔を上げて梓を見た。その目の険しさに梓はどきっとする。

「もういい? 次貸して」

 コントローラーを取った美幸ちゃんの爪が、意図なく梓の手の甲を抉った。美幸ちゃんは一瞬、あ、という表情をして目を逸らす。テレビ画面の主人公が歩き始める。何となく気まずくなって、それは美幸ちゃんも同じだったのか、二人して画面を見るのに集中する振りをして少しの間黙っていた。

「別に、元からたいして仲良くないよ。お母さん愚痴ばっかで疲れるし、お父さんの方がお金あるし。それにどうせ私、高校卒業したら一人暮らしするんだ。あと三年なら、もうどうでもいいじゃん」美幸ちゃんは取り繕うように急に饒舌になった。

「じゃあ今お父さんと二人?」

「うん。兄ちゃんたちももういないしね。一番いいよね、先に家出てさ」美幸ちゃんは鼻で笑った。諦めたような馬鹿にしたような笑い方がお父さんとよく似ていた。

 美幸ちゃんがカチカチとボタンを連打してスティックを倒すと、主人公が歩き、サクサクと小気味良い音がした。ふと美幸ちゃんの手元を見ると、伸ばしているのだろう爪にはラメの入った水色のマニキュアが塗られていて綺麗だ。塗ってしばらく経つのか根本は白く伸びてしまっている。自分の手に目を落とすと、さっき美幸ちゃんの爪に引っ掻かれた手の甲に赤い線が一本走っている。僅かにヒリヒリと痛い。

 そういえば、美幸ちゃんはとっくに漫画を描かなくなってしまった。あの頃の梓は、小学生の無邪気さで、美幸ちゃんはきっと漫画家になると思っていた。ふと、小野原さんの顔が思い浮かんだ。小学校の文集で警察官になりたいと書いていた小野原さんの卒業後の進路を梓は知らない。

「あのさ、小野原さんっていたじゃん」

 梓が言うと、美幸ちゃんはチラッと梓を横目で見た。

「うん。何?」美幸ちゃんの雰囲気がピリッとした。

「いや、何ってことないんだけどさ」梓は平静を装って濁す。「途中で転入してきたでしょ。だからどうしたのかなって思って」

「そっか、あずちゃんは小野原さんと仲良かったもんね」

「別に、良くないよ」梓は慌てて言う。「なんか変わってておもしろいから一時期話してただけ。それに、うちの学校に来てからは全然。なんか前と変わっちゃって、話しかけづらくて」

「ふーんそう。じゃああっちでも友達いなかったんだ」

 美幸ちゃんは気を良くしたように、ニヤッと笑った。

「一年の時同じクラスになったんだけど、うちの小学校から同じクラスになったのってあの子だけだったんだ。だから、他の子にあの子と仲良かったのかって聞かれて、私は、あの子あんまり好きじゃないんだって言っただけなんだよ。そしたら他の子があの子のこと馬鹿にし始めて、なんか、そうしてもいいみたいな空気になっちゃったんだよね。あっちも悪いんだよ、うまく立ち回ればよかったのに、無視したりして余計反感買うんだもん。それで向こうがキレちゃってさ、授業中に大騒ぎになって。親にまで連絡されて、お母さんには泣かれるし。しかも転校なんてされたらさ、なんか私が悪いみたいじゃん」

 美幸ちゃんの言葉には、随所に自分は悪くないという気持ちが滲んでいた。馬鹿にされたり悪口を言われても、明るく振る舞ったり嫌われないように努力するのが美幸ちゃんの言う「うまい立ち回り」なんだろう。でも小野原さんがそれをできない子であることは、小学校での彼女を見ていた梓はわかる。美幸ちゃんもきっとわかっていて言っている。

「あの子高校どうするの? さすがにうちには来ないでしょ?」

「うん。成績良くなかったみたいだし、違うはず」

「だよね。さすがにねー」

 美幸ちゃんはクッキーに手を伸ばす。小野原さんの話題が終わって、梓はほっとした。それから、新しい学校の教師や、新学期の日程の話をした。クラス分けは入学式の朝までわからない。

 帰り際、梓は靴を履きながら、玄関にいつもあったケージが無いことに気づいた。美幸ちゃんの家は小学生の頃からずっとハムスターを飼っていて、それがあるのが当たり前だった。

「ハムスターちゃんはもういないの?」

 ハムスターに〝ちゃん〟を付けたことを自分でもおかしかったなと思っているところに、

「ちゃんって」

 ふふ、と美幸ちゃんにも笑われてしまう。過剰に気を遣ったことを見透かされたようで顔が熱くなる。

「それどの子のこと? もう死んだよ。ハムスターって三年しか生きないもん。それに、私が欲しいって言ったのは最初だけだし。あとは死んだらお母さんが買ってきたの。もういいのにって思ってたんだ」

 家に帰ると母が、美幸ちゃんのお母さんが今は遠く離れた県にいることを教えてくれた。

「美幸ちゃん寂しいだろうね。お兄ちゃんたちもいないし、美幸ちゃんのお母さんも心配してるのよ。梓、仲良くしてあげてね」

 母に言われて、梓はうんと答えた。


 渡里さんの一件以来の、中原さんの態度の変化に梓は戸惑っていた。

 表面上は変わりがない。軽口を交わし、笑顔も向けてくれる。しかし休憩室で会っても忙しそうにすぐに席を外してしまう。以前は自分の話をしてくれたのに、そんな素振りすらない。成瀬さんと一緒にいることが増え、まるで梓を遠ざけているように見えた。

 あの一件から関係が変わることを梓は想像もしていなかった。むしろ中原さんに親近感を抱き、彼女を庇ったことで仲が深まったような気がしていた。気にしすぎだろうかと悩み、やはりそうは思えず中原さんの変化の理由を繰り返し考え、その度に行き着くのは、中原さんが梓に引け目を感じているのかもしれないということだった。

 なんとか話をしなければと思ったが、直接口にするのは憚られた。何か、それを拒絶するような張り詰めた雰囲気が、中原さんの笑顔にはあった。梓にできるのは、いつもより明るく彼女に話しかけて、何も気にしていないこと、今までと変わりないことをアピールすることだった。しかし日が経つうち、変わらない中原さんに梓は苛立ちを感じるようになった。こんなふうになるならいっそ、表沙汰にしておくべきだったのかもしれないと頭を掠めることもあった。自分は間違っているかもしれない。同僚として中原さんを諭して、主任に報告に行くべきかもしれない。何度か、どんな風に主任に話そうか頭の中でシミュレーションした。しかしその行動を起こすだけの勇気もなかった。

 そうして日が過ぎたある日、その日も渡里さんは不穏で、お粥を食べさせようとした梓の手を払い除けた。わ、と小さく声を上げた瞬間、梓はあの日のことを思い出した。職員は皆それぞれ手を取られて席を立ち、座っているのは梓と中原さんだけだった。誰も梓のことは見ていない。あの時と同じことをして見せよう、と梓は思いつく。

「もう、渡里さん」

 笑いながら、ほんの少し強く肩を押してみせる。渡里さんの体が少し揺れる。首が思いのほか大きく傾ぎ、どきっとする。「危ないからだめですよ」微笑みを浮かべて渡里さんに言い、中原さんの反応を確認する。中原さんはスプーンを持った手を止めて驚いた表情でこちらを見ていた。梓は中原さんに笑いかける。あれは大したことでは無いのだと、梓は気にしていないのだと中原さんに分かってもらえるはずだと思った。ほとんど共犯と言ってもいいところまで下りてきたつもりだ。しかし中原さんはすぐに顔を背け、硬い表情で俯く。梓は落胆と苛立ちの渦に飲み込まれる。

 他の職員たちが席に戻ると、張り詰めた空気が薄らいだ。慌ただしく食器が鳴る音がまばらになり、利用者の食事が次々に終わって口腔介助に入り始める。渡里さんは大体いつも最後になる。時間がかかって拒否もあって面倒だから、皆介助に入りたがらない。いつも何となく、梓や中原さんがする羽目になった。その中原さんもあの一件から避けている。梓は毎日苛立つ。一つ一つは小さな苛立ちが毎日積もっていく。次の一口をスプーンに乗せ、渡里さんのお粥で汚れた口をじっと見つめる。飲み込んだだろうことを確認してスプーンを差し出すと、所々歯の無い口が大きく開く。いつも残すと分かっているのに毎日運ばれてくる同じ量の食事を、梓はいつも途方に暮れながら彼女の口に運ぶ。いつも、終わりが見えない気分になる。どう頑張っても残ってしまう食事を残飯入れに落とし入れ、厨房まで運ぶ。罰が当たるのが、自分でなければいいけれどと考える。


 梓は以前にも親しかった人に、こんなふうに急に手を振り払われたような気持ちになったことがある。美幸ちゃんだ。あの時は今よりももっと、突然のことだった。今考えると、美幸ちゃんの家に行った時、入学式は一緒に行こうと誘われなかったことから気づくべきだったのかもしれない。

 入学式の朝、初めての登校に梓は緊張していた。昇降口で見たクラス分けの表の、同じ列に美幸ちゃんを見つけて心底ほっとし、恐る恐る入った教室で、梓はすぐに美幸ちゃんの姿を見つけた。早く同じクラスになったことを喜び合いたかった。美幸ちゃんの席には知らない子が二人、すでに寄り集まり、その親密さから同じ中学校から進学した友人たちだとすぐにわかった。美幸ちゃん、と呼ぶと全員の目が梓に向いた。

「やったね! 同じクラス」

 美幸ちゃんは無表情に梓を見上げて、二、三度目を瞬いた。

「あー、うん」

 美幸ちゃんはどうでもよさそうに言って目を逸らし、それきり何も言わなかった。美幸ちゃんの横に立つ二人は梓を見て、美幸ちゃんを見て、顔を見合わせてわずかに首を傾げた。思っていた反応とのあまりの違いに、梓はどうすればいいかわからず立ち尽くした。逃げるように、じゃあ後でねと背を向けてすぐに、声を潜めた嫌な話し声と、次いで笑い声が聞こえた。会話の内容は大体予想がついた。あんな空気になってあの二人が、あの子誰、と尋ねないわけもない。

 それが始まりだった。

 翌日もその翌日も、美幸ちゃんの態度は変わらなかった。

 美幸ちゃんは小学校の時と同じように高校でも中心的存在だった。そんな美幸ちゃんが梓に冷たい態度を取っていることに、周りの子達もすぐに気づいた。梓は入学早々、「触れない方がいい人」になった。友達になりかけていた子さえも、段々、離れていった。梓は、美幸ちゃんが教室の中で人に囲まれて笑っていることが辛くなった。いつも美幸ちゃんの存在に気が向いて、心臓が潰されるような心地がした。

 最初のうち、美幸ちゃんと何かあったの、と心配してくれていた森さんは、いつの間にか美幸ちゃんの取り巻きの一人になり、梓の一番の友人だったことをおくびにも出さず、中学生の頃からかわれて泣いていた、大きな胸を新しい友人たちにからかわれて、もうやめてよお、と満更でもなさそうに笑っている。本当は梓も同じ場所にいるはずだったのに。美幸ちゃんの傍で笑っている森さんを見ていると、憎しみにも似た感情が湧いてきて、小野原さんもこんな風に梓を見ていたのだろうかと考えることもあった。

 それでも何かを変えれば、美幸ちゃんが許してくれれば元に戻れるのではないかと、しばらくの間は考えていた。

 入学して三ヶ月が過ぎた頃だった。月に一度の委員会活動を済ませて、下校時刻の迫る廊下をとろとろと気だるく歩いていた梓は、廊下の向こうから森さんが来るのに気づいた。遅れて梓に気づいた森さんは気まずそうな顔で俯き、足を早めて横を通り過ぎようとした。周りには誰もいない。話しかけるなら今だと思った。森さん、と梓は思い切って呼び止めた。戸惑いの滲んだ顔を向けた森さんは、梓が何を言うか恐れているように見えた。

 森さんに聞きたいことはいくつもあった。美幸ちゃんは、梓のことを何か言っているのか。森さんから見て今の梓はどう見えるのか。以前のように仲良くするにはどうすればいいのか。夏とはいえ、日は暮れ始めていた。教室の電気は全て消え、窓の締め切られた廊下は薄暗く湿気で蒸し、暑さと緊張で梓の背中に汗がじんわりと滲んだ。窓の外から、校舎前を通って帰る生徒たちの高い笑い声が聞こえた。森さんは気まずそうな顔で、手のやり場に迷ったのか、シャツを小さく握り、また離す。早く立ち去りたいのだろうと一見してわかり、それだけで梓は傷ついた。

「私、美幸ちゃんに何かしたのかな」

 ただ尋ねたかっただけなのに、言葉に出すと、思っていたより惨めそうに響いた。深刻な雰囲気を誤魔化そうと、はは、付け加えた笑いは震えていたが、森さんも安心したように笑い返し、少し空気が緩んだ。

「私にもわかんない。あんなに仲良かったのに何でだろうね。喧嘩でもしたのかと思ってた。違うの?」

「してないよ」梓は首を横に振った。「森さんから美幸ちゃんに聞いてみてくれない?」

 いやいやいや、と森さんは早口に言う。

「無理だよ、もう話題に出すのも憚られる感じだもん」

 笑い混じりに誤魔化しても、苛立ちが隠しきれず滲んでいた。無理だよ、と森さんが首を横に振ると長い髪が揺れた。森さんが小学生の頃から知っているけれど、こんなに髪が伸びたのを初めて見る、と梓はその時気付いた。ストレートパーマをかけたのか、ヘアアイロンで伸ばしているのか、癖っ毛だった髪が真っ直ぐになっている。天パなのがほんと嫌だ、と中学の時にトイレで髪を直しながら言っていた森さんの、前髪を人差し指と中指で挟んで伸ばす仕草が、鮮明に思い出された。

 階段から、競い合うように忙しなく降りてくる何人かの足音が聞こえ、イエイ一番、ジュースジュース、と男子の声が聞こえた。駐輪場前にある自動販売機のジュースを賭けていたのだと、森さんと向かい合ったまま梓は思った。梓は入学以来一度も、その自動販売機を使ったことがない。下校前の友人同士が他愛のない話をしながら別れを先延ばしにするあの場所は、梓のような生徒には用がない。紙コップを片手に友人と談笑している美幸ちゃんの前を、梓は何度も逃げるようにして早足で通り過ぎた。

「じゃあ私、ずっとこのままってこと?」

「梓ちゃんは小野原さんよりいいじゃん。虐められてるわけじゃないんだから」

 さっきまでは取り繕っていたのに、森さんはもう目線も合わせなくなって苛立ちを隠さない。その様子に既視感がある。梓もこんなふうに小野原さんを見下していた。自分は相手とは違ってうまくやれる、うまくやっている、そう思っていた。森さんはもう友達ではないんだと、その時諦めがついた。そうだね。梓は心にもなく言った。

 もじもじと気まずそうに手指を動かしていた森さんは、じゃあね、と教室に走っていった。戻ってくる森さんと顔を合わせないよう、梓も踵を返す。校内は部活終わりの生徒で溢れていた。廊下で話し込んでいる生徒たちとそれを追い立てる教師たちの横を通り抜け、ガタつくすのこに足を乗せる。屈んで靴を取り出していると、足元のすのこが揺れる。反射的に顔を上げると、梓を見下ろす美幸ちゃんと目が合い、慌てて顔を背ける。緊張から顔を上げられない。美幸ちゃんの腕が梓の顔のすぐ側に伸び、靴を取った。梓は美幸ちゃんといつも一緒にいる前田さんと浅野さんが、出口前で談笑しているのを見つける。

「あった? スマホ」

 美幸ちゃんが爪先でコンクリートをトントンと叩きながら梓の後ろに向かって言った。足元のすのこがガタガタと大きく揺れ、森さんが風を起こしながら梓を追い越した。

「あった! ほんと、良かったー。無くしたかと思って焦ったよ」

 森さんと美幸ちゃんは前田さんと浅野さんと合流し、昇降口を出て行った。森さんがちらっと梓を見て、美幸ちゃんの耳元に寄るようにして何かを言い、美幸ちゃんは親しげに森さんの肩を触った。梓のことを何か言ったに違いない。梓は怒りと羞恥で顔が熱くなるのを感じた。

 靴を持ったまま立ち尽くしている梓の背後から、早く帰りなさいよと通りがかりの教師が言う。梓は返事もせず駆け出した。美幸ちゃんたちを追う。二人が何を言うか聞いてやる。聞き逃してやるものか。グラウンド前で距離が近づき、二人の話し声が聞こえた。周囲には沢山生徒がいて、森さんと美幸ちゃんは梓には気づいていない。森さんの声に耳を澄ますと、何回か目の下校を促す放送の合間に、途切れ途切れに単語が聞き取れた。「フライ……落とし……」そう聞き取れた瞬間、梓は足を止めた。小学生の頃に魚のフライをぶちまけてしまった、数年間忘れていた記憶が鮮明に蘇った。一緒に拾ってくれた森さん、泣いて皆に謝った梓、金田くんの揶揄いから庇ってくれた美幸ちゃん。あれは、美幸ちゃんたちに助けられた思い出でもあった。罰が当たるよ。あの時、柳瀬先生はそう言ったのだった。

 後ろから歩いてきた生徒が、訝しそうに梓を横目で見ながら通り過ぎていった。美幸ちゃんは声を上げて笑い、おかしくて堪らなさそうに森さんの肩を何度も叩く。ぞろぞろと列を成して校門に向かう生徒たちに追い抜かれながら、梓は二人の姿が校門を出て見えなくなるまで立っていた。

 罰が当たったんだ、罰が当たったんだ。帰り道、梓は無意識にそう呟いていた。そう呟くことでさっき聞いた言葉を、光景を紛らわそうとしていたのかもしれない。


 昼休憩の時間だけ、職員はフロアから出られる。デイサービスや居宅介護支援事業所の職員たちもいる食堂の中のいつも同じテーブルで、梓たち入所の職員たちは集まって食べる。それが暗黙の了解になっている。重い扉で閉ざされ、暗証番号を入れないと出られない空間にいる梓は、別部署の職員たちとほとんど面識がない。

 先に席についていた白川副主任と井上さんはもうほとんど食べ終わる頃だった。梓も隣に座って、午後から訪問美容ですね、とたいして興味もないがその場を埋めるために話をする。先に休憩に入った中原さんの姿がないのは、もう食べ終わって喫煙所か休憩室にでも行っているのだろう。さっき食事介助で渡里さんがイヤイヤをしていたきゅうりとしらすの酢の物が、オレンジ色の螺旋模様の小鉢の上に形良く盛られている。梓はそれを落ちないように箸で摘んで口に運んだ。

 食べ終えた頃、ちょうどエアコンの修理業者から電話が入り、非常階段に出た。話し始めて、非常階段下にある喫煙スペースから話し声がするのに気づく。

「まあぶっちゃけ考えますよね」中原さんの声だ。

「だよねー」成瀬さんの声が応える。「なんかやる気なくなるよね、人少ない中でなんとかやってるのに、昇給すらなくなるって。それで井上さんも来月まででしょ。欠員はきついよね。募集はしてるらしいけど」

 修理業者は今度の休みに来てくれると言って、失礼しますぅ、と間延びした声で言って電話を切った。盗み聞きしていたと誤解されたら面倒だから、話を聞いてしまう前にとそっと立ち去ろうとした時、好井さん、と聞こえて梓はドアに伸ばしかけた手を止める。

「好井さんもなあ。谷増さんは頼りになったのにな、いなくなっちゃったし。好井さんってなんか、はっきりしないし。ぶっちゃけ合わない、イライラする」

 あー、と中原さんが相槌を打つ。

 成瀬さんに嫌われているのも陰口を言われているのもわかっているから、今更そんなにショックはない。それより梓は、中原さんがどう返事をするのか知りたかった。速くなり始めた鼓動を落ち着かせようと胸を押さえながら、耳をそば立てる。

「確かに成瀬さん、合わないだろうなって感じします」

「でしょ。でも看護師さんだから指示聞かないとだし。またその指示も自信なさげで大丈夫なのかよって」

 あはは、と中原さんが明るく笑う。「うーん、そうですね」

「でも中原ちゃんとはよく話すよね」

「あーまあ、同期だから話しやすいだけじゃないですか?」

「私たちには全然よそよそしいもん。悪い人じゃないけどさあ、なんか絡みにくいよね。あの人って何歳?」

「一年くらい前に三五って聞いた気がします」

「えー、結構いってる。歳上なのは知ってたけど」

 そっとドアを開けて戻ろうとした時、梓の脳裏に、美幸ちゃんと森さんの背中を見送った、あの時の光景が頭に浮かんだ。昇降口から飛び出すようにして、二人の背中を追いかけたあの日の衝動と怒りが胸に蘇る。梓はドアに伸ばしかけた手を下ろした。くるりと身を翻し、非常階段をゆっくりと降り始める。緊張で感覚が研ぎ澄まされているのか、靴底がコンクリートの上に散らばった砂を踏んでザリザリと鳴る感触がやけにはっきりと足裏に伝わる。踊り場を曲がると、想像していた通り、成瀬さんと中原さんがパイプ椅子に座って、気怠げに電子タバコを燻らせているのが見えた。中原さんは背を向けていた。先に梓に気づいたのは成瀬さんだった。成瀬さんは梓と目が合うとあからさまにやばい、という表情で中原さんを見て、振り返った中原さんと目が合った。梓が目を逸らさずにいると、中原さんは動揺した顔で数秒黙った後、お疲れ様です、と小さな声で白々しくつぶやいた。

 心臓が激しく拍動する。声を出そうとすると、興奮のせいか頭がクラクラするような感覚があった。お疲れさまです。言いながら視界がぐるりと回るのに耐える。早足で喫煙所の前を通り過ぎ、背中でざわざわとした気配を感じ取る。成瀬さんの抑え気味の、わあともひゃあとも判別のつかない歓声が聞こえた。

 食堂で談笑している白川副主任たちの輪に戻る気にはなれなかった。仕事が始まるまでどう時間を潰そうかと考え、たいしてしたいわけでもないのにトイレに立ち寄って、とりあえず、と入った個室で排尿し、前髪の乱れた顔を手洗い場の鏡に写す。えー、結構いってる。成瀬さんの言葉を思い出す。目の下の皮膚の黒ずみが、加齢のせいなのか疲れのせいなのかもうわからない。ペーパータオルを丸めてゴミ箱に落とし、行く場所が思いつかずに途方に暮れる。仕方がなくフロアに戻ると、早めに昼休憩を取っていた職員が水分補給の介助をしている。気配を消してロビーを横切り、事務室裏のベッドに腰掛けると、深いため息が漏れた。中原さんの動揺した表情を思い出す。ざまあみろ、と心の中で毒づく。梓と同じように、心を揺らせばいい。そうでなければフェアじゃない。

 戻ってきた白川副主任に、うわびっくりした、と驚かれて休憩時間が終わった。中原さんと成瀬さんは、休憩時間が終わる間際に連れ立って戻ってきた。中原さんがチラチラと梓の様子を伺っていることに梓は気づかない振りをした。話しかけてくるだろうかと考えているうち就業時刻が迫り、帰ろうとしてロッカーの扉を開けた時、中原さんが後ろに立った。

「あの、さっき、すみませんでした」

「いいですよ。同意しないといけない空気ってありますもん」自分に言い聞かせるように口にする。嫌味でも言ってやろうと思っていたのに、いざとなると言えなくなる。

「でも、私は思ってないですからね」そう言う中原さんを、ずるいなと思いながらも、梓が「ほんとに?」の語尾に声を震わせて笑いを混ぜるのは、真剣に問い詰めているように聞こえないためだ。ほんとに、ほんとですよ、あはは。笑えば何とか収まるような気がして面白くもないのに笑う。今なら話ができるかもしれないと梓は思いつく。

「中原さん、あの時のことなんですけど」

 え、と虚をつかれたように中原さんは声を漏らす。

「あの、この間の、渡里さんの。私は気にしてないですから。もちろん主任にも言わないですし」

 中原さんは、はは、と乾いた笑いを漏らし、目を伏せる。無理に作った笑顔が強張っている。

「違ったらすみません、中原さんが気にしてるんじゃないかなって思って」

「すみません…反省してます」

 中原さんはまた、はは、と笑う。何かがうまく噛み合わない。梓は胸騒ぎがした。中原さんは腹の底に抱えた何かを隠しているように思える。梓は慌てて、いやいや、と中原さんの謝罪を否定する。次の言葉に迷っているうちに、中原さんは小刻みに会釈をして、じゃあ、すみません、と逃げるように背を向けた。

 ひどく疲れていた。追いかけてこれ以上言い募るような気力はなかった。早く一人になりたい。アパートの小さな部屋で、誰の視線も感じずに体を丸めたい。ロッカーから出した鞄の中では、白川副主任に、好井さんってあんこ好き? 俺はあんこだめなんだ、と答える間もなく渡された白餡のまんじゅうが、横倒しになった水筒の下で潰れていた。

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