おかあさんからドーナツを貰った。 正確には夫の母だから、義母だ。 義実家に行くと、おかあさんはいつもにこにこしながら玄関先に駆けつけてくれる。 そしてたっぷりのおいしいものを食べさせてくれる。 まるで3歳児に向けるような眼差しで、わたし(を含む、全ての生きとし生けるもの)を愛でる。 この間、義実家に行ったとき、おかあさんは仕事で家を空けていた。 「これ、おかあさんから」と持たされたのがドーナツだった。 赤ちゃんのこぶしくらいのコロコロとした球体。 真ん中に穴が空いている
地下鉄駅に通じる階段の踊り場に、ひっそりとその入り口はあった。 ケーキがおいしいという評判を地図アプリで手に入れていた私は、ためらわずドアノブに手をかける。 「一人で営業していますので、お待たせする場合がございます」と貼り紙。 ふむふむ、と私は思う。 時間に余裕はあるから問題ない。 「いらっしゃいませっ、お待たせするかもしれませんがっ」 店主であろうおじさんが、カウンターの向こうから、顎をしゃくって言う。 「あ、かまいません」 私はカウンターに近寄り、おじさんの斜め前に
朝から調子がすぐれなかった。 頭の中がぐちゃぐちゃと散らかっていて、考えごとがあっちへ行ったりこっちへ行ったりする。 気圧のせいかもしれないし、ホルモンのせいかもしれない。 とにかく整然とした端正なものの中に身を置きたくて、雪の中、美術館に行った。 地面は圧雪が溶けかけてじゃりじゃりのシャーベット状になっていて、時折ずるりと滑る。 そのときやっていたのは、美術館の収蔵品と現代アートの新作をかけあわせた展示だった。 調子がよくないので解説文がまるで頭に入ってこず、たじろいだ
「夢だった……」 朝、炊飯器の前で夫は頭を抱えた。 「ごはん炊いてたと思ったのに」 家で仕事をしている夫は、外で働く私のために毎朝お弁当を作ってくれる。 昨日は晩ごはんを食べたあと、ごろごろしてそのまま二人で眠ってしまった。 「ごはん炊かなきゃねえ」 「お弁当の分がないからねえ」 とか言いながら、ねこを撫でたりしてダラダラと床を這っていたのだ。 助け合えない夫婦である。 ごはんの心配をしながら寝入った夫は、夢の中でごはんを炊いていたらしい。 ちなみに私は麦茶の温水プー
朝8時半、私は狭さで目が覚める。 隣で寝ている夫が、私の布団に侵食してきているのだ。 「うううう」 私は呻きながらそれを押し返す。 夫は不満げに「んんんん」と言いながら元の位置に戻る。 敷布団で区切られた幅100センチメートルの空間は私にとっては聖域で、これを侵すことは、なんぴとたりとも許されないのだ。 布団からどうにかこうにか起き出したら、夫の作った朝ごはん(今日は昨晩の残り物のおかずとコンソメスープ)を食べて、食後にぬるいカフェオレを飲み、昼が近付くまで夫で暖を取りな
仕事の出張で東京へ行った。 一泊二日の旅だった。 北国へ帰ると、その端正さに私は驚く。 空港から街中へ向かうJRの電車は、照明がやけに青白い。 人はみな無口で、電車の動く、ごおおう、という音と、時折なにかが軋むオットセイの鳴き声みたいな音だけが響く。 壁に広告はひとつもない。 扉の横には雪除けのための手動ボタンがついていて、それだけがぴかぴかと黄色く鎮座している。 はじめにだだっ広い野原が続く。時刻はすでに午後6時を回っていて、野原はただのっぺりと塗り込められた暗闇に見え
きのうの夜、深型フライパンになみなみ作ったハヤシライスをお腹いっぱい食べて、倒れるように眠ってしまった。 寝支度もせずに朝まで寝入ってしまうだなんて、信じられない、と思われるかもしれないが、我が家では眠る人は眠るままにしておく。 私は意識のないなかズボンを脱いで、パーカーにパンツ一枚の姿になってベッドの上でうなされていた。 翌朝、いつもよりずいぶん早く目が覚めた。 外はまだ暗い。 のそのそと起き出して浴室に行き、湯船に熱いお湯をはる。 お湯がいっぱいになると「お風呂がわきま
「今年一番の大雪だって」 朝、スマートフォンで天気予報を見ながら夫が言った。 寝坊してリビングにやってきた私は、マーマレードジャムが塗られた食パンをカフェオレで流し込みながら「へえ」と相槌を打った。 夫はちょうど食卓のダイニングチェアを猫に奪われているところだった。夫がおしりでちょいと猫を押しやると、猫はぷるる、と迷惑そうに鳴いてそこを退いた。 夫の進言を素直に守る私は、厚手の丸首のセーターを頭から被る。そして太ももの隠れる長めのダウンジャケットをもこもこと羽織り、ノースフ