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父、熊を飼う。

5月29日、きのうは父の4回目の命日。
昨年は、家族全員が命日当日に三回忌だと気づくという大失態だったので、今年はnoteでも父を想う。

父は、足立区北千住に育ち、4歳のとき東京大空襲で親戚のいる長野県に疎開した。


仕事は土木関係で、図面を引いたり道路や公園運動場の開発、いま老朽化が問題になっている水道管を埋設したり、発展途上の日本の地面に父はいた。

寡黙寄りではあったが、酔っ払って口を開けば、戦中~戦後を生きてきた人のご多分に漏れず、どうしようもないエキサイティングな話しがゴロゴロでてくる人だった。

ーー

長野県 碓氷峠に道路を通す、工事用の道路を作る測量のため、父は同僚と二人で山中の小屋に長期滞在することになった。

いつものように測量をしていると、猟銃の音が鳴り響いた。いつもより近い。それから少し経って、草むらの向こうがざわつく。黒い。子熊だ。子熊がいるということは、凶暴な母熊がいるはず。
碓氷峠といえば、ツキノワグマ。危険すぎる。


ふたりは、距離があるうちに子熊を脅して遠くに追いやる。が、すこし経つと、子熊がまたよっちよっちと現れた。今回も母親の影はどこにもない。
あとで、どうやら母らしき熊は撃たれたという情報が流れてきた。同僚と意見を交換した結果、まちがい無いだろうという結論に達した。


子熊のなかでも幼い。子熊 of 子熊。ぬいぐるみみたいでカワイイ。 俺たち何ヶ月もふたりきり。仕事と酒と読書くらいしかすることねぇな。母がいなければ子熊は飢え死する。いやその前に撃たれるかも知れない。
愛犬のハナコ、思い出すな。
可哀想だな。かわいいな。


一緒に住むか🙌


近づこうとしつつ警戒心の強い子熊に、牛乳を皿にはって置いてみるとわりりとあっさり飲みにきたという。


それから、作業員2人と子熊の生活がはじまった。
休日には町で牛乳を買ってきて飲ませたり、歯が発達してきたら木の実や食事を別けたりした。ドッグフードは好まないらしい。


子熊はよく懐いて、ぺろぺろと甘えてくると、やっぱ強烈に獣臭かったとか、丸くなって眠る姿が愛らしかったと、生前父は目を細めていた。


峠を少しくだったところに、唯一のスナックがあって、オジサン二人は愛犬のように愛熊を連れていく。
子熊はカウンターのとなりの席に静かにちょこんと座る。その姿が堪らなく愛くるしかったらしい。一度、お酒をひと口舐めさせてみると、ころんっと眠ってしまったという。


測量中(仕事)は、子熊もその辺りでころんころん遊ぶ。なんだか牧歌的ではないか。大自然の小さな家みたいだな。
まあその黒いのは、ツキノワグマだけどな!


オジサン二人に愛情深く育てられた子熊は、季節の小さな変化とともに、見る間に成長を遂げた。
幼いころのように、じゃれて、真っ黒な可愛いおててを振り込んでくると、ザックリと深手を負って鮮血が流れることもあった。甘噛みされても鮮血が流れる。遊ぼう♪ と押し倒されると重くてガチで身動きがとりにくい。
ふとした瞬間、野生の熊を思わせる雰囲気も増えてきた。


ときを同じくして、仕事も予定通り一段落するところだった。運輸省(現・国土交通省)の検査も近々予定している。


そろそろだな。
身体が成長したといっても、人間と生活した以上はもう自然には戻れない。父はいろいろリサーチと交渉をして、多摩動物公園が引き取ってくれることになった。

運輸省の職員が検査に入る予定日より前に、多摩動物園からのお迎えの段取りもたった。良かった。もうすぐお別れだな。


しかし、ことは急展開を迎える。
運輸省の検査が予定よりかなり早い日程に変更となった。
多摩動物園のお迎えよりも前。ヤヴァイ。熊を飼ってるなんてバレたら大問題だ。昭和中期といえども許されない。大ピンチ!


オジサンふたりは思案した。
検査の時間は数時間。どうする? 納屋に隠しておこう!検査は施設や設備がルールを守っているかなどもみられるが、それをスルーできる納屋がある。もともとあった納屋で前々からの荷物に加え、資材などをしまっていた。名案だ!


検査当日、子熊にはロープのリールをつけた。長時間だから、自由度を高くするためにロープはとっても長くしてあげた。それを、太い梁にくくって、ミルクや餌も置いた。完ぺきではないが、ガマンして待ってろ。


ふたりが職員にぴったりと同行して、数時間後。
長い検査を無事にクリアして職員を見送ると、納屋に駆けつけた。待たせたな!

戸を開けると、愕然とした。
とんでもない光景だった。


大きな子熊は宙に浮いて変わり果てた姿となっていた。


どうやら壁にしつらえてあった、天井近くまである物置棚や渦高い荷物を伝って、梁を飛び越えたりしたのだろう。そんな風に遊んでいるうちにロープが足りなくなったのではないか。なぜなら、ロープは梁に何重にも巻き付いていたから。

さすがの父もショックだったようだ。
まずは多摩動物園に電話をしてことの事情をはなした。


父の話しでもそこは私の記憶が曖昧だが、熊の肉を取るためかなにか、とにかく何かの理由で埋めることはできず処分する必要があった。
しかし多摩動物園は当然、亡骸は引き取れないという。


解決が見いだせないでいると、同僚のおじさんが、「俺がもっていくよ。心当たりあるからな」というので、子熊の亡骸に手を合わせ、同僚にお願いした。

そんな風にして、父の碓氷峠の仕事と子熊との生活は終わった。

ーー

その冬、同僚だったオジサンと雪の長野で再会すると、同僚はえらく丈夫で温かそうな黒い毛の羽織を被っていた。


「あの羽織は、ヤツだな」


父が少しニヤッとして言った。


戦中戦後を生き抜いた子どもは、ヤヴァイな。

お父さん、天国でも元気でありますように。合掌

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