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夢の話

 数週間前に、不思議な夢を見ました。映画『マトリクス』のワンシーンような完全に白い場所。私の姿は透明で、どこまでが自分の体なのかも解らない、そんな曖昧な存在でした。

 程なくして、私の正面あたりから、何かが迫って来るのが解りました。その姿は見えず、ただの気配であり、はっきりと2種ある存在でした。その2種はクルクルと回りながら、私にめがけ突き抜けるようにぶつかりました。痛みは無く、溶け合いながらも、別意識のまま、お互いの存在だけを認識しあっているという感じでした。

 相手はあきらかに『私に好意がある』ようでした。とても純粋で、ストレートな好意の表現でした。私は、この2種を、人であるのかどうか以前に、『男性的ではない』と感じました。男性同士であれば、少なからず、互いのステータスの上下を気にしてしまう瞬間が、必ずあるからです。この2種のそれはどこか恋愛的であり、それでいて、はっきりとしたセクシャリティーは感じさせないものでした。

 訳が解らない中、単純な『好意』を示され続ける私は、とてもさわやかな満足感を味わいました。その2種は止まること無く私の周りを動き続け、まるで『ちやほや』するかのような印象を持たせます。すると私は急に不安になり始めました。この2種の『目的』が気になり始めたからです。そして、この『好意の理由』も。私の不安は、徐々に大きくなりかけるものの、すぐに、その2種の心地良い『好意』により、ほどかれてゆきます。

 私は思い切って訪ねてみました。『なぜ自分に好意を持つのか?』と。答えは瞬時に返って来ます。『好きなものには理由は無い、ただ近付きたいだけ』。ならば、『なぜ、そんなにも、素直に好意を示せるのか?』。『それは姿が無いから』。

 この返事によって、私は分厚い百科事典なみの内容を全て理解したような感覚を持ちました。姿がなければ、特徴は無い。年齢、性別、人種、全ては無意味です。確かに、残るはお互いの存在から感じる印象のみ。当然ここには、学校も会社もありませんので、嫌いな相手にはしごく単純、近付かなければいいだけなのです。ということは、今自分のいるこの白い世界は、とても居心地の良いところ。接触をして来る相手は、少なからず自分に好意を持っている、その満足感の中を、自分は過ごすのです。

 不安は消え、代わりに、次から次へと根源的な疑問が沸いて来ます。ならば、この白い世界は『傷付かない世界』ということなのか?その答えもすぐに示されました。『誰にも、傷を付けることは出来ない、姿が無いから。また傷をつけたいという感情は芽生えない。好意でしか動かないから』。なんとシンプルで、そして解りやすいのか。

 しかし、すぐに自分の中に、次の不安が芽生え始めます。『でも、きっと、自分のような存在には、やがて失望し、あなた達は離れてゆく、そうしたら、やはり、私は傷付くことになる』。すると、2種はまるで、浮かれたように笑い出し、ちゃかすように答えます。『この世界で、傷をつけることが出来るのは自分自身だけ』。この答えに私が躊躇していると、『人はもともと、恐怖心や憎しみだけは持って生まれて来る。それを克服出来れば……』と続き、後は私の思考を見守っているようでした。恐怖心や憎しみだけは持って生まれて来る?それこそ、生まれてから体験するものではないのか?

 私は焦り問い掛け続けます。『じゃあ、そういうものを克服出来ていれば、もう傷付くことはないのか?』。『あとは、自分の純粋な好意で動くのみ。永遠に満足を共有しあう世界』。私は、いつの段階からか、これが夢だとも認識していましたし、優等生チックな物語だなと、冷ややかに見つめてもいました。ただ、姿が無くなった時、とても自分は素直に好意を示せるだろうし、それで作られるネットワークは、さぞ素晴らしいものだろうな、とは思いました。考えたこともない発想でした。素直に好意を示す、このことにより、人は遥かに幸せになれるのです。無論、それは不可能です。特に大人には責任がつきまといますし、結果がついてまわります。だからこそ、素直にそれを出来る人を羨み、そして妬むのです。

 私は目覚め、妻にこの話をし、話すことで、記憶をしました。ですが、実のところ、この夢より、さらに不思議だったのは、目覚める瞬間の『閃き』の方でした。いきなりに『夢こそが、未来のメディアではないか』と感じたのです。

 私はSF話が好きで、少なからず『2012年に何かが起こる』のではと思っています。ノストラダムスの時のような地球滅亡説もあれば、もっと精神的なものもあります。中でも私は『人類の一代意識改革説』の方に興味があります。しかし、一体どうすれば『意識改革』が出来るのか?これを考え続けていました。

 私は、大きくは3つあるように考えています。まず、宇宙人、まぁ地底人でも海底人でも同じですが、とにかく自分達と違う種で、しかも同じだけの文明レベルを持った存在と、これからの生活をともにすることになった場合。これは間違いなく、意識改革をさせられることになることでしょう。次に人類全体に寿命の期日が出来た場合。集団の死を前にして、意識を変えざるを得ないでしょう。

 最後に、何か強烈な『新しい考え方の出現』。私はこれに期待をしているのですが、問題は、その内容より、むしろ『伝え方』ではないかと思っています。つまり『メディア』です。テレビからか、ケータイ電話からか、PCか、それとも書籍か、あるいはその全てか。ですが、どれも拒むことが出来ます。また、地域や生活スタイル、経済事情などでバラつきが生まれます。

 そこで『もし夢がメディアになりえたら』と考えたのです。夢ならば、分け隔てなく、誰にでも情報を送れますし、また疑似体験のような強烈さも持ちます。子どもから大人まで、極端に言えば、寝たきりの人にまで、余すことなくその情報を伝えてゆくのです。その上、半ば、強制的に。もしそれが、素晴らしい内容で、また全ての人々の共感を呼ぶものであったとしたなら、その朝、目覚めた人から、意識は変わってゆくことになるのです。もし夢自体が、人類全体に共有した部分を持ち、同じ情報を送れるとしたら。私が見た夢が、ただ、脳が生み出した物語なのか、それとも、楽園的な『あの世』ツアーであったのか、それはわかりません。

 その日以来私には、同じような夢を見ている人が、どこかにいるような気がしてならないのです。そして私の見たような夢を、もし一斉に世界中の人が見ていたなら、体験をしていたなら、これから、一体どんな世界になるのだろうと。

 私は数週間経っても、今だ消えることのない、あのさわやかな満足感漂う世界を思い出し、密かに、人類の一代意識改革説に、期待をするのです。

2011.9.6