あいちトリエンナーレ2019

14日にあいちトリエンナーレが閉幕した。

2022年に次回の開幕も決定したようだ。

色々な報道もあり、実際に鑑賞しに行って真面目にアートについて考えてしまい、感想について筆が進まなかったけれど、まとめてみようと思う。


あいちトリエンナーレとは

あいちトリエンナーレとは、3年ごとに愛知で開催される芸術祭である。

表現の「表現の不自由展、その後」は今回とても重要だった。

具体的には別記事にてまとめようと思う。


表現の不自由展は報道でも取り上げられているように、わずか3日で展示中止となる事態に追い込まれた。

この、あいちトリエンナーレ内の一企画が一時中止になったことを受けて、再開を訴えるアーティストたちが、抗議のため展示中止や内容変更を行った。

これにより、2ヶ月強の期間中どんどん展示内容が変更されていくという芸術祭になった。

そんな中わたしは、それらの展示が再開されるタイミングで、この芸術祭を鑑賞することができた。


豊田エリアには行けなかったけれど、記録をしておく。



キンチョメ「声枯れるまで」

まず、円間道・円頓寺エリアの映像作品、キンチョメの声枯れるまでだ。

名前を変えたLGBTQの人たちにインタビューをし、その経緯や、自分のジェンダーについて語ってもらい、最後に自分の名前を声枯れるまで叫ぶ、というものだ。

あなたの名前はなんですか?

あなたの名前は、自分のアイデンティティーと一致していますか?


名前は記号だ。

言葉が記号だからだ。


だから私たちは名付けをされると、その記号に当てはめられてしまう。

男らしい名前や、女らしい名前は、多くの人の共通認識にあって、その枠組みを窮屈に感じている人がいる。

また、自分の性認識と身体が一致しない人、男か女のどちらかに分類されるのに違和感を持つ人。

悩みは様々で、このLGBTQという枠組みもすでに、窮屈そうに思える。

だんだんと広く知れ渡るようになったLGBTQだが、理解できないひと、理解しようとしない人もいるのが問題だ。

インタビューされていたジューンの母親も、全く理解を示さないため、名前を変えたことを伝えていないと言っていた。

性については、とてもデリケートで個人的な問題であるからこそ、他人が全てを理解することはできだろう。だから、男や女という分け方をせず、個人として存在できる世界であってほしいと願う。


最後、あなたの名前はなんですか?と問いかけ、インタビューされた3人は自分の新しい名前を叫ぶ。本当に声が枯れるまで。

自分を自分たらしめる新しい枠組みを、確認するような力強い叫びだった。



モニカ・メイヤー「The Clothesline」

女性として差別されていることはあるか、性暴力を受けた時にどう思ったか、本当はどうしたかったか等という質問の紙がおいてあり、鑑賞者は自由に書き、ロープに足していくことができる。

声なき声を可視化する作品だ。


わたしも小学生の時に、道端で痴漢にあった。

なんで自分がこんな目にあうのか、怖くて恥ずかしくて消えてしまいたかった。泣いて家に帰り、断片的に、母に話した時、母が一緒になって泣いたことも忘れられない。

警察でどんな経緯だったかを話すことも、本当に辛かった。

警察署にいたおじさんまでも犯人に思えるくらい、恐怖心が拭えなかった。

わたしのこの出来事は、客観的に内容を聞いたらそんなもんで済んで良かったね、という程度だ。

だけどわたしは未だに、人に詳しく話すことはできない。

うまく言えないけれど、わたしの価値が下がっていくような気がするからだ。


こういう性をテーマにした作品を見ると、当時のことを思い出す。




ヘザー・デューイ=ハグボーグ「Stranger Visions」


ニューヨークの街頭で収集した、タバコの吸殻、チューインガムや髪の毛等からDNA情報を抽出し、3Dプリントによって、顔を作成する。

テクノロジーの進化によって個人情報が漏洩していく現代に警鐘を鳴らす作品だ。

犯罪の操作に役立つという側面はあるが、唾液から顔が特定される世の中で、個人情報の保護とはなんだろうと考えさせられる。

わずかなDNAサンプルで性別や年齢、髪の毛や目の色、顔の形まで分かるのは驚きだった。もうあと数年でその精度はぐんと上がるのだろう。

そうなったらきっと、個人情報など守れるものではないか。

流出する前提で、どう自分を守るかを考えなくてはいけないのだろうか。


現代に生きていくことの便利さと恐怖、両方を感じる作品だった。




あいちトリエンナーレでずいぶんと真面目に鑑賞してしまったのは、映像作品もしっかりと見ることができたし、自分の関心がある、性についての作品が印象に残っているからかもしれない。


横尾忠則があいちトリエンナーレについて、みんな真面目に考えすぎなんじゃないか?とツイートしていた。

確かに遊びや、楽しいという気持ちだけで制作したり、鑑賞することも大切だし、アートが世の中にとって真剣に必要だとも思うので、バランスが難しいところである。

と、またしても真面目にまとめてしまった。

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