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活字で書いた文章は、自分の人格から半分くらい切り離されていると感じた話

活字で書いた自分の思考はどこか他人行儀さを感じる

僕は普段自分の感情や思ったことを、手書きで日記に書いたり、Obsidianというノートアプリにツイートみたいな感じでメモとして書いたりしている。

日記も、Obsidianのメモもどちらも自分の思ったことを書いているので、どっちも一人称視点で書いていて、基本的には自分のことを友達と話す時のように「俺」と呼ぶ。
ただ、最近手書きの日記を見返すときと、活字のObsidianのメモを見返す時とで、同じようなことが書いてあっても、この「俺」という言葉に対する印象、ひいては文章全体への印象が全く違うことに気がついた。

手書きの日記を読み返すときは、例えば「俺は〇〇と感じた」と書かれたのを読んで、「ああ、確かに俺はこんなことを思ったなあ」と過去の自分の感覚を追体験しているような気持ちになる。
一方で、活字(Obsidianのメモ)を読むときは、自分の感覚を追体験しているような気分にならないのである。
確かに自分が書いた文だという認識はありながら、もはや自分の一部ではない、そんな感じがしてしまう。
なんなら、活字で書かれた「俺」という一人称にすら違和感を感じて、自分の思考から生まれたはずの言葉が、見知らぬ他人のようにぶっきらぼうにすら思えてくる。

手書きの文で、その言葉の中に確かに自分自身を感じられるのは、自分自身が紡いだ言葉だからというだけではなくて、筆跡という外的な要素に自分自身を感じられるからなんだろう。
だけど、活字として形としての文字の個性を失ってしまった文章は、もはや半分くらい自分という存在からは切り離されているのだなと感じた。

じゃあ、LINEとかで使う一人称の「俺」は?

上で書いたような違和感を感じてから、ふと一つ疑問が湧いた。

僕はLINEとかでも、友達と話すときは「俺」と自分のことを呼んでいる。
だけど、LINEで書かれた「俺」は、活字であってもまさしく自分のことであると感じるのだ。
LINEで僕が書いた「俺」は、確かにそこに自分がいる。

LINEでは全く違和感を感じなかったからこそ、活字で自分一人の呟きとしてメモを残すようになって、残されたメモを見返すときに違和感が生じるのを新鮮に思ったのである。

LINEで書く「俺」と、自分自身に対する独り言として書く「俺」は何が違うのか。

明確な答えかは僕自身まだ確信を持てないけど、LINEで書く文章は、他者との関係によって自分の存在が浮かび上がるからではないかと思った。
他者とのコミュニケーションの中で、いつもの自分の特徴、自分らしさが浮かび上がる。だから、同じ活字でもそこに確かに自分があることを感じられるのではないかと感じている。

自分を規定する何かがあって初めて自分を感じられる

そんなこんなを考えていく中で、自分という存在はそれを浮き彫りにしてくれる何かがあって初めて実感できるものなのかなと思うようになった。

僕にとってのそれは手書きの文字の筆跡であったり、友達と話すときの微妙な話し方の違いであったりするのだろう。
逆に自分自身と対話しているときの言葉そのものには、自分の輪郭を浮かび上がらせてくれる何かが欠けているのかもしれない。

何が自分を自分だと感じさせてくれるのか、そんなことを考えるのもちょっと面白いなと思う発見であった。

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