憶えていること、憶えていようとすること、はたまた…

再びレイ・ブラッドベリ―『 #カ氏451度 』ネタ。

考えさせられたこと。

主人公ガイ・モンターグが妻のことを思うのだけれど、これといって印象に残る記憶がなくて悲しむ場面。

小説のような劇的なことがない日常で、妻の記憶、家族の記憶というものはどうして残るだろうか?

毎日一緒にいるんだから何かあるでしょ?

こういう小説を読んで「悲しいな」と感じたら、何もかもを微に入り細を穿つように記憶に刻み込もう、なんてのは大げさすぎるとしても、「ちょっと気を付けて見てみよう」、「何気ない出来事も、『次が必ずあるとは限らないぞ!』と思ってみよう」、、、というように意識的に憶えておこうと仕向ければ、何か残るかもしれない。

私と妻はお世辞にも仲良し夫婦であるとはいえない。

SNSで知り合ってからの期間は長かったけれど、直接顔を合わせたのはたった1回で、結婚することにした。

結婚を決めた時、私は既にポルトガルでドクターの勉強を開始していたけれど、まだまだ先行き不透明な状態だった。それでも2、3年で勉強を終えて、仕事に就く、と考えれば経済的には問題なかろうと考えたのだった。

妻はわざわざ勤めていた会社を退職し、住んでいたアパートを畳んでまでポルトガルへまさに身一つで来てくれたわけで、それは相当の覚悟であったろうと思う。

もうこの「覚悟」の時点で見解の相違があろうとは思いもしなかったけれど。。

要するに、私たちは知らない者同士。生い立ちも何もかもが違っていて、ほとんど似通ったところがない。

私は上に姉がいる長男で、ちょっと年の離れた弟がいて、3人の中では常に一番威張っているような立ち位置。

妻の方はお姉さんがえらいできる人で、年子なんだけれども、ちょっと敵う敵わないを問うのも憚られるような関係だったよう。それは学校の成績どうこうだけでなく、妻は幼い頃におっきな手術を受けていて、今も左足全体にわたるおおきな手術痕がある。つまり、子供のころから手術後特有の痛みを始め、さまざまなハンデを背負っていた。

私の両親は仲睦まじく、バカでかくはないけれど一部上場企業を恙なく定年まで勤め上げた父親と、お金のかかる時期はパートに出ていたけれど概ね主婦として家を切り盛りしていた母親。何の問題もない。少なくとも子供たちにとっては余計な心配事などは皆無だった。

妻の両親は離婚後、後妻を迎えられ(つまり生みの母親が出ていった)、継母さんとの仲がうまくいかず、、、という中々大変な高校・大学時代を過ごしたよう。

ということで、私はいわば教科書通りの人生をスイスイと。妻はあれこれと子供なり、思春期の少女なりに、知恵を絞るなどして自身を安定させるのに四苦八苦しながら生きてきた。

私は、苦労してきた人ほど、苦労したなりに人には優しくなれるものと勝手に思い込んでいたのだけれど、苦労にも程があるのだな、と思い知らされた。

勿論苦労の程度や内容だけではなくて、どんな人々に囲まれていたか?どんな人に出会えてきたか?などなどいろんな要素も関係するわけで、一般化できる話ではない。

妻の場合は概ね独りで頑張り過ぎたんだろう。

お父さんだってお姉さんだって、私が会って話をした印象だと、「困った」と言えば考えてはくれそうな人たちだった。でも、おそらく、みんなそろって頭が明晰(お父さんとお姉さんはお医者さん、妻も医者ではないけれど頭脳はかなり優れていると思う)な場合、かえって正面からぶつかり合うってことが起こりにくくて、それがためにストレスが溜まってしまって、時々爆発すると規模が大きくなってしまって、都度関係がこじれていってしまう、、、そんなパターンだったんではないか?と想像している。

不器用と言えば不器用。生みのお母さんも含め、4人とも普通に、いや、かなりいい人。それでも歯車が狂えばいかようにもなる。家族だからこその問題ともいえる。妻はその犠牲者だったのだ。家族の問題は傷跡を残す。特に弱い立場の子供にとっては、逃げ場のない状態が日々延々と続くわけだから。。。

本当のところは妻でなければ分からない。

私が妻を見ていて、何故そうなるか?想像したとき、私にとって理屈の通る筋書きだというだけ。

実際に辛酸を舐めていない私としては、どうしても「そうはいっても過去のこと。これからをハッピーに。そうするには。。。」という態度に出てしまう。

理屈ではそうなのだ。

辛かった過去に引っ張られて、今以降に悪影響が出てしまってはつまらな過ぎる。

とはいえ、本人にとっては生きてきた過去。存在証明の一部。全く忘れてしまえるわけもないし、忘れろなんて言うのは乱暴すぎる。辛いなりにほのかな喜びを編み出したりなどもしていたはずなのだし。

ただ、そのあたりは賢く措置できるんじゃないか?とも思う。いい思い出は大切に抱えておけばいい。悪い思い出だって、そのお陰で今がある。二度とはまっぴらごめんだけど。ぐらいに思えばいい。

理屈ではね。。。

私の妻との記憶はそうしたことで埋め尽くされている。それだけではないけれど。。

どうすればすんなりと呪縛から解き放たれるか?

解き放とうと試みれば、すぐに「インターフェアランス・アラート」となって彼女に防御態勢をとらせる。

刻み込まれているのは傷というよりも生存戦略上のプラクティス。無意識的に反応できなければヤラレル。

戦っているのだろう。人生は戦いなんだろう。

どっかで信用する方向に舵を切らなければ何も変わらない。

二人でいる意味がない。

今は三人になったけれど、息子が4歳を超え、自我が芽生え始めるにつれ、益々事態は複雑になってしまっている。

息子は、しかし、希望でもある。

妻も(私でなく)息子なら信じられるんじゃないか?と。

あと。

妻本人。

彼女は間違いなく善人。

魂が善なのだ。

あまりケラケラとは笑わないけれど、笑うととってもかわいいし、何よりも見ているこっちの気持ちがぱっと明るくなる。思えばSNSで時折読んでいた文章もほっこりさせられるものが多かった。

笑顔だけではない。

喧嘩した後、妻は大体ケロッと忘れたように通常モードに戻れるタイプなんだけれども、私は引きずるタイプ。妻もそれは分かっているので、喧嘩して間もなくの私に話しかけるのは、自分は通常モードになれるとはいえ困るらしい。

引きずる私はほとんど妻の顔は見ないものなのだけれど、つい最近その「どんな顔して話せば~」と戸惑っている表情を見てしまって、ふっと心の中で軽く吹き出してしまった。愛おしいという感覚はそういう時にやってくる。

見逃していることなんて数え切れないだろう。

でも、私の場合、記憶は映像・画像よりもストーリー。何が残るか?何を残そうとするか?それははっきりとは見えない。ただただ読み続け、書き続けるイメージ。

人間を愛するということは容易ではない。

けれども絶望しないでいることはそれほど難しいことでもない。何故なら、人には心があって、それは常に揺らぎ続けているから。つまり、次の瞬間はどのように変化するのか?は誰にも分からない。「人間に絶望する」ということは理屈上はあり得ないことだと思うから。

救済者気取りではなく、ただ傍にいる人とメモリーを紡いでいくことで結果的に何かが違ったつながり方をするようになればいい。

私の命が尽きるまで、それは継続されるのです。

元来怠け傾向の強い私なので、自身への監視の目は「ゆるめないぞ!」でも足りないぐらい。かつ、ヴィジュアル、オーディオ性能もあまりよろしくなく。。。抜け落ちるものも膨大なんだろうなー、、、と弁えつつ。。。

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