見出し画像

ことばの力

俗に私たちが日常使用している言葉は、自然現象や自然に存在する事物の描写という点で、数式に劣ると言われている。これは、そのような事物・現象を構成する物質や動きを厳密かつ正確に記述することが、日常の言語ではほぼ不可能であるから。リンゴを林檎と呼んだり、林檎と梨を区別するのに大きな困難はないけれど、今日も朝日が昇り夕べ日が落ちると言っているだけでは、地球が自転しながら太陽の周りを回っているなんてことはきっと分からないだろう。でははたしてことばの弱点というのは、正確かつ厳密に名前を付けることができない、ということに起因するのだろうか?

実際のところは、それは弱点というよりもことばの力だ。力とはいいながら、実は名前を付けることによってことばはモノを殺してしまう。さらに、名前を付けられたモノとともにことば自身もモノに成り下がる。折角名前を決めたのに、ことばだけ勝手に活き活きとされては意味がないからだ。モノであるなら、パワーを持った人の方がその意に沿うように使えると考えるのが自然であろう。(とはいえ、私たちは誰でも日常的に様々な名詞を使用するのだから、誰もがそれなりにパワーのある人だ、ということは忘れてはなるまい。)そのようなパワーは、生まれつき持たされた様々な性質・性向、能力、物的資源などなど、また、どこに生まれたか?どういう環境でどういう人々と出会ってきたか?というような人それぞれの道程。そのようなものによって発揮されるものだ。

名前を付けることによりモノを殺す力を持つことば。しかしことばは私たちにそれぞれが通ってきた道順を分かりやすく示してくれるものでもある。特に見過ごされがちなのが、非常に短い時間に(秒とか分のオーダーで)通り抜ける道筋。私たちのあらゆる行為は何らかの痕跡を残す。その痕跡を踏まえなくては名前は付けられないのだ。その「痕跡を踏まえる」という能力は、ことばによって非常によく補完されるということ。つまり、「名前を付けてしまったら名前を付けられたモノとともにことばは死ぬ」が、ことばは実際に何が起こったのか?その痕跡を探るための道しるべにもなる。要するに、実際に起こったことの痕跡である、と思って読みさえすれば、その命は復活するのだ。

この循環論法のような道筋がまさにことばの力の源。つまり、私たち人間が生き、そして、様々な痕跡を残さなければ、シンプルなモノにだって名前は付けられないのだ。さらに、名前(≒モノ)と化して、人間の意思によって都合の良いように利用されることばではあるが、それらは誰かに「読まれる」ことによって意味を持つ、ということにおいて、決してただのモノではないということ。「読む」ということによって「意味を持つ」とは、「読み手」がことばを「分かる」ということ。

「分かる」というのは、ことばが表象している実物(モノ)の全体又はそれの象徴的なパーツであるとか性質であるとかを判別できる、ということが一つ。さらに、ことばによって表象されている実物のみならず、その他の情報も照らし合わせて「分かる」こともある。コンテキストとかいわれるもの。同じリンゴでも、木になっているか?冷蔵庫で見つけるか?ではその意味するところは随分異なるだろう。「分かる」でもう一つ、忘れられがちなのが、いちいち「分かった!」と言いたくなるかどうか?というものがある。

え?それって「分かる」ってことなの?

もう少し理屈っぽく表現するなら、ただことばから、それが何のことか?が「分かる」だけでも、「読み手」にとっては意味のある場合もあるし、コンテキストと合わせて、例えばリンゴなんてありふれたものが、ありふれた場所にある、と聞いても、全く興味がひきつけられない、ということもある。そういったいちいち、その時々の「読み手」の置かれた状況に即して発生・変化する「意味深さ」とでもいえようか。

なぜそれがことばを「分かる」の一部を成すと考えるのかというと、そのように時と場所によって違った感じ方をする、というその行為(あえて’行為’と言う。’感覚’ではなく。)によって、「読み手」には何らかの変化がもたらされるから。

私たちはあまり注意も払わず、「経験」ということばを用いるけれど、そのあまり注意を払われない「経験」なるものは、そういった微細な変化の一つ一つから構成されている(どのようにまとめられているのか?は非常に難しい話なのだが。。。)。そうして積み重ねられる「経験」というものは、必然的に経験した人の感じ方、考え方、行動の仕方に、大小様々な影響を及ぼす。特に、「分かった!」っていちいち言いたくなって、本当に言った場合、単にことばを理解した、という内面の変化のみならず、その「分かった!」に触れる他の人がいるならば、そうした他者への影響も生じるであろう。その「分かった!」の内容が、非常に他者にとっても興味深いモノについてであったとしたら?そして、最初の「読み手」との「意味深さ」が異なるとしたら?本当にいろんなことが発生するだろう。

話を多少膨らませ過ぎた、というか、ことば自体から離れてしまったけれど、ことばにフォーカスを当てなおしてみても、その時々、人によって異なることばの「意味深さ」というのは無視できない影響がある。例えば、リンゴなどというシンプルなモノではなく、もっと複雑な事件であったりクイズであったとしよう。同じことばで表象されているはずのそうした事件やクイズなのに、ことばが意味するモノが何か?についての議論が巻き起こる場合もあろうし、全体の表記の仕方が、異なる読み手の間で、彼らが置かれている状況に照らして、適当かどうか?という議論になるかもしれない。何が言いたいのかというと、ことばなるもの、勿論文法もあるし、文字や音節の規則などもあるし、それらをきっちりルールに従って使わなければならないので、当然とある「決まったかたち」がある。であるけれども、そうした「決まったかたち」があるからといって、「決まった意味がある」とは到底言えない、ということ。

であるからこそ、「その時々で異なる感じ方をする」というのは、単なる感覚ではなく、その人の経験を構成するパーツとして重要な、’行為’なのだ。つまり、その’行為’こそが、ことばの「意味」を「作る」のだ。

では、ことばは私たちに何をしてくれるのだろう?様々な事象やモノを効果的に表象することで、分かりやすくしてくれる。様々な出来事を時系列に沿って辿ることで、表象されている個々のモノや現象・イベント以外の、それらを巡る周辺情報を教えてくれるかもしれない。これらの効用は、人がことばを道具として用いることによって得られるもの、と考えられやすいだろう。しかし、ことばは単なる道具ではない。人に使われることによって、特に「読まれる」ことによって、「意味」が「作られる」のだから、常に、使う人が考えている以上の「意味」が生まれることになる。したがって、ことばは、使う人の目的に沿って正しく使用しさえすれば、期待された効用がもたらされる、というような道具とは異なるのだ。もしも道具であると理解できるとしても、その道具は私たちを正しい使用方法などで制限するものではない。どちらかというと、どのような可能性をも残しておいてくれる。そんな「空きスペース」と考えた方が適当であろう。

ことばの力を考えるに当たって大切なこと。それは、そうした「空きスペース」というものは、何も無規律・無制限に予め用意されているものではなく、「決まったかたち」に沿って、一人一人が使うことによってのみ、交渉が可能になる、という性質のものだ、ということ。

ことばにまつわるルール。特に文法というものは単なる処方箋や様々な法律・規定のように、それらを守りさえすれば特定の舞台で行われるゲーム(人と人との交流・通信など)が成り立つ、というものではない。特定の場所で特定の性質を共有している人々同士であっても、文法に従いさえしておれば瑕疵なくやりとりが完遂されるというわけではない。そもそもの成り立ちが逆で、人々のより瑕疵のない他者とのやりとりを「よし」とする気持ち(選好)が文法を形作ってきた。つまり、道徳観や倫理が詰まっているものなのだ。ましてや、ことばにまつわるルールは、何も文法に限ったことではない、ということを考えるならば、どうしてしばしば、「ことばは人のキャラクターに影響を及ぼす」とか「ことばには精神的・内面的効果だけでなく、物的効果を及ぼす力がある」などと言われるのか?が少し分かるのではないだろうか?

ことばというのは、ある意味、不確定な世の中でなるべく「よく」生きようとする私たち人間の存在の仕方、実際の行動等々を全て映している。かといって鏡を見るかのごとく、即時的にそのような像を見て確認することはできず、常に遅れたタイミングで、かつ、自分以外の人々の言葉や行動を媒介してしか知ることができない。しかしそれは、裏を返せば、自らのこの世における存在の仕方が何らかの痕跡を残しているのでは?と様々な動機により追い求めるのであれば、ほぼ間違いなく、そのような動機(自己のルーツを追い求めるようなロマンチックな動機や自己の行動・言動に責任をもつといった男前な動機など)に沿ったストーリー(ヒストリー)が読み取れるはずのもの。よって、ことばは、即時的・平面的な要素間の繋がりだけではなく、継時的で奥行きのある情報について、「読む」ことを可能としてくれるものなのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?