深くて濃いのは難しい?

人間の社会というのは程度や洗練度の違いはあれ、漏れなく階層化されている。

日本はあまりシビアに階層化はしていないと多くの人に信じられていて、おそらくそんなにおっきく間違えてはいないと思われる。

客観的事実がどうかはさておき、人にはそれぞれ何となく抱いているイメージというものがあって、もしも、日本が本当にそれほど大きな格差のない社会であったとしても、人々が抱く印象がために、心理的な格差ダメージが大きくなる場合がある。

どういうことかというと、格差は存在するわけで、塾に通いたくても通えない、学力的にはいけるはずの学校を経済的事情で諦める、というような人は五万といる。でも大多数の人のイメージは「そりゃいるかもしれんけど、そんなたいしたことないっしょ」だとすると、困窮している方の人々は、経済事情が改善するなんてのは無理って分かってても、非常に理不尽な思いを味わう。何故なら、自分たちの現状について、ありのままを理解してもらえている、という感覚に巡り会えないから。「無言を強いられる感じ」ともいえる。

残酷さというのは何も物理的、経済的なインパクトだけに専ら左右されるわけではなく、このような「すっかり無視」という、法的用語でいう処の”善意”の方が、デカい精神的ダメージをもたらすことがある。

精神的ダメージが特定のグループにもたらされるというのは社会的損失だ。社会全体としての協力関係、ネットワークが分断されてしまうから。

日本も長らく経済が停滞し、貧困問題も徐々に顕著になってきている。当然なるべく全員に最低限衣食住に困らない生活が保証されるよう、諸施策が講じられるべきだけど金がかかる(だけじゃないけど)。対して、人々の抱く格差に対するイメージであるとか、困窮した生活というものがどういうものか?についての理解というのは、容易なことではないけれども、変えるのにそんなにお金はかからないはず。(まあ何にせよ金をぶっこめば何かやっているアピールはできて、それだけでも多少は困窮者のフラストレーションを軽減できるかもしれない。。。けど。。。実際金を頼みにした施策ってのは大概において当事者無視に陥り易くて、逆効果になる確率の方が高い。。。)

日本以外の先進国は、アメリカなら過去に奴隷制があったり、ヨーロッパなら移民の流入が歴史的にほぼ常態化していたりで、人々の実感として相当差し迫った社会分断の要素が存在していて、これをいかに制御しうるか?苦心してきている。

公的な制度に関しては、日本とは状況がかなり異なるため、あまり参考になるとも思えないけれど、明らかに不利を被っている人々がどのようにして日々暮らし、世代をつないでいっているか?についての記述は非常に濃くて深いものがある。この虐げられている人々のことを濃厚に記述する、という方法。これってコンテキストの違いはあれ、活用可能或は積極的に活用すべきなのではないか?

濃ゆいストーリー

こんなとある本のレヴュー記事を読んだ。

現代のアメリカにおける黒人の比較的若い世代がどのように日々をつないでいっているのか?というストーリー。(だからあくまでもフィクション。事実かどうか?は検証の余地あり。)

かの国では奴隷制が建国以来しばらく維持されていたし、撤廃後も1960年代の公民権運動以降も、多くの黒人は継続して不利な境遇を甘んじて受けさせられている。

当事者意識がそれほど湧かない私たち日本人などからすれば、「難しい問題かもしれないけれど、徐々に改善されてきていることは事実だし、現状で問題なしとは言えないけれど、継続して対話などを通して不利な立場に置かれている人々の声も吸い上げ、漸次改善していくしかないだろう」というのがまあ無難なコメントになるだろう。

ただ当事者には日常がある。

たまたま運が悪くて学校でいじめに遭うというような類の運の悪さでは済まない。

生まれた時から何故か違うお父さんがいたり(おじいちゃんに至ってはいっぱいで誰がそうだか?よくわからない)、そのうちの何人かが平気で殺されちゃったり、環境劣悪な住居を転々としたり、ドラッグがほぼグループのアイデンティティであったりするような境遇。

いじめという言葉は相応しくはないけれど、言うなれば社会全体からいじめをうけているような状態。それも幾世代にもわたって。

なので安易に”前向き”ストーリーを語って希望を示す、というのは、逆に「おまえ?バカにしてんの?」って全く共感を得られないばかりか、より分断を鮮明にしてしまう可能性がある。

希望の無さが駆動力となって信仰心を維持している。教会には行かないけれど。。。

どんな境遇であろうと、人間というのは自分よりも明らかに偉大なるものにサブミットする。「従う」というと受動的過ぎ、「選択する」というと主体的過ぎる。微妙なニュアンス。諦めと生への意志・意欲の狭間。自身を納得させながら運命の趨勢を握る力を何者かに委任する感じ。(これって現代の庶民にとっての政治そのものじゃないか!)

「生きる」って一言でいっても、これぐらい濃い。

シンプルに”ポジティヴ”と”ネガティヴ”を並べて、少なくとも”ポジ”に向かわないんじゃ無意味だよね~なんて結論付けた気になっているってのは、現実を見ていないというか、お気楽な夢の中で生きさせてもらっているというか、まあ、”ぬるい”。いつまでたっても”善意が致す残酷さ”ってものに気付くことはないだろう。それも生き方の一つという意見もあるかもしれないけれど、私個人としては認めるつもりは毛頭ありません。結局みんな多少なりとも繋がっちゃってるからさ。「オレ等・ワタシ等さえよければ…」ってのは、理想論として抑制されるべきなんてもんではなくて、現実問題としてあり得ないんよね。そこでぶった切れているのは、アナタがぶった切っているからで、元々は繋がっています。

問題が格差のように社会全般に及ぶ話になると、私たちは外からその問題を分析しようとしがち。勿論それも大切。現状を正確に知ろうとする一環として。でも、社会って、自然現象とかラボでやる実験と違って、人の生の人生が営まれているから。因果関係を洗い出して、対処策を施す、という方法だけだと効果が上がらない。一体何を感じ考えながら生きているのか?これは無視できない。

昨今の日本の(だけじゃないか?)まあまあ恵まれている方に蔓延している”そこはかとなくポジティヴを推奨する雰囲気”って、私にはファナティック(狂信的)に映る。みんなそんなに現実見たくないの???「ポジティヴになれないんじゃ、社会の害悪なだけだし、まあ惨めに死ぬしかないよね」みたいな一見クールでスマートな態度。それに追従する盲衆たち。。。

そんなに人々の頭をシンプル化して一体何になるというんだろう?

マシンだよね。明らかに目指されているのは。効率性。それも便益産出のためだけの効率性を専ら目的とする。

常にポジティヴを維持できて、知力にも満ち溢れているなら、シンプルでおっきなインパクトが容易にもたらされるもんばっかりに夢中になってないで、より複雑な人間の現実を汲み取れるシステム開発にこそ注力すべきでないのか?得意なことばっかりやって、それを成果として誇るって、、、。それってホントにポジティヴ?それってホントに知的に優れているって言えるのか???頭良いってんなら、ちょっと考えれば分かりそうなもんだけども。。。

深くて濃いのが難しいとか面倒くさいってのが、道徳的正しさを主張しているなんてのは相当危機的状況だと思う。何故なら、道徳的な判断基準ってのはより本能的な良し悪しの感覚に関連するもののはずなのに、これがへんてこりんな理屈(大概役に立つとか経済的便益が高いとかを無理矢理数値で示したもの)で狂わされてしまっているから。数式が正しいことが道徳的にも正しいなんてことが言えないのは明らかでしょ?結局数式が正しいって理解していたって、何年生きるのにいくらお金が要るか?なんてどんぶり勘定どころか、「まだ足りない。まだ足りない。」って得られるだけ沢山得ようとし続けるわけだから。そうしといて、「こっからここまでは数値上みんな確保できるはずです」とか「いや。さすがに努力次第でしょ。何も努力しないで安心できるような財産なんて無理ですよ。」みたいなことを後付けで宣う。そういう態度に醜さであるとか道徳的に許されない感覚を覚えないってのは、もう人としておかしい。

そうして考えてみるとちょっとは感じられるでしょ?○倍○三やら政治家やらが特別なんじゃないってこと。多少なりともみんな、同じ日本の空気吸って生まれ育ってきたんだ。似たような特徴を分け合っている。まずは現実に向き合える胆力を身につけなければね。。。「自分は違う」とミクロの差異ばかりを追求するんでなく。。。日本みたいに似たような人ばかりなら、ミクロの差異だって相当意味ありげに映るし簡単に見つかるのよ。

楽して過ごすのが人生だ。

まあそれは、深くて濃ゆい人生ってもんを熟読されてから、仰られればいいんじゃないでしょうか?自分にではなく、虐げられている人々へのしばしの赦免の気持ちを込めて。


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