善か悪か

私の人間観は「人間。誰でもいい方がいい。」とまとめてしまえる。
俗に言う性善説に近いのかもしれない。
でも私には性善説に立っていますとは言いたくない気持ちがある。
ひねくれ者だというのも当たっているけれどそれだけともいえない。
自分自身だって色々悪いこと考えるし、自分以外の人間を全部いい人だーーー!!!みたいな勢いでは信じられない。
要するに私は本当に性善説には立っていない。

吉村萬壱さんの『哲学の蠅』の中で、確か「ホンモノの悪の方が難しい。ちょい悪ぐらいが一番簡単。」というようなことが言われていた。
一理あるなあと思う。

多分吉村さんの理屈は違うんだろうと思うけれど、私の理屈では、悪を敢えて選んだとしても、選んでやってる以上「それがいいんでしょ」というもの。
つまり「悪を選ぶ」というのはそれ自体に矛盾があるのだ。

では意識して選んでいるのではなく図らずも純粋悪の行動をとってしまう場合は?
しかもそれが常態化してしまっているとすると。。。
自然に振舞ったらそれが漏れなく悪。。。生まれながらの極悪人?
なんかの小説か映画にでも登場してきそう。。。
小説や映画とは言ったけれど、生粋の悪人というものはただのフィクションで現実には存在し得ないなんてことは言えない。
ただ、いたとしてもかなり生きにくいんじゃないか?とは思う。
つまりホンモノの?悪というのはやっぱりカンタンじゃないのだ。

だって、「図らずも」ということはやってしまった悪とは別に図っている(目的としている)もの(いい方のなにか)があるだろうし、そうなら単に自分がいいと思っていることと社会とか世間とかでいいこととされていることに食い違いがあるというだけ。ならば積極的に悪の方を選んでいる場合とそれほど違わなくてその人個人の世界に限ればやっぱり「いい方」を選ぼうとしているといえるんじゃないか?

こうして考えてみると人間は個人としてはやっぱり「いい方がいい」。
けれども話はそんなシンプルなわけはなくて、世間的に見て「いい」方を選べだとか選び方を間違ってるんだから懲罰を加えよとかそういう話になってくる。
果ては個々人にとって「いい方のもの」なんて知ったことか。社会基準に合わせろだの甘ったれたこと言ってんなだのという所謂社会圧力が生まれ、おいおいそういうきみだって「社会にとってのいいものがいい」という自分にとっての「いい方のもの」をえらい寵愛しとるやないの?という矛盾が出てきてしまう。そういう矛盾に気付いた上で「そりゃオレも自分にとっての『いい方のもの』を選んじゃいるが、たまたまみんな(社会)の『いい方のもの』と合致してるんだから問題ないだろ」と言うのならまだマシだけど、自分自身の「いい方のもの」なんてのは社会のために犠牲にしている(そこがエライ)とかいうことを言い出してしまう。

最後のものが一番の悪じゃないか?と私は思うのだけど、それは真っ赤なウソだから。しかもそれを真っ赤なウソとも気付かないままデカい声で「いいことしています」と堂々と宣言し続ける。これ以上の悪ってあるんだろうか?

「犠牲にしている」ってのがクサイ。
ガマンしてるとかね。

この手の自分を抑制する系の油断ならないところは個々人にとっての「いい方のもの」を集団でもって見分けがつかないものとしたりあたかも無いものとしてしまうところだ。

冒頭言った通りでやっぱり人間はいい方がいいので個人のレベルに限ればそれで問題ないというかそれが一番自然で無理がなくていい。何かを抑制する場合であっても個々がそれがいいと思ってるなら不自然でも不合理でもない。
ところが悪を積極的に選ぶ場合や図らずも悪を行う(いい方を図っている)場合と違って「ガマンするのがいい方」というのは本当にガマンを「いい方のもの」として選んでいるのか、はたまた自分にとっての「いい方のもの」なんてものについては実は何も考えていないのか区別がつきにくい。
そもそもがガマンだからね。。。我慢。。。

こうして考えてみると分かってくることは我であるとか私であるとかいうものは出てきた瞬間にわたしたちに災いをもたらしてしまうということ。

単純に「いい方がいい」というように生きているだけなのに、やれ今君がいる環境ではどーのこーのということからはゼッタイに逃れられない。

そんなどうしようもなく救いのない世の中なのにこぞって私がどーだとか我思う故に・・・とか言い出す人間がわんさか現れる。わんさか現れるもんだから別に何も考えていない(考えるだけの知的能力も備わっていない)人まで釣られて言うことを聞かざるを得ないかのような行動をとらされてしまう。

ちょっと落ち着いて考えてみて欲しいのだ。

私が何々を・・・

何故頭のちょいとよく働く方の人間たちはそのように考えてしまうのか?もうそれしか選択肢などあるはずがないだろう!というぐらいの勢いでしゃべりたおしたがるのか?

楽したいのよ。

誰だって。

いい方がいいつったってそれ真面目に追求するなんてむちゃくちゃしんどいのよ。だから敢えて悪を選ぼうとするのも図らずも悪を働いてしまうのもしんどいのよ。

つまり。

ぼくら人間。

残念かもしれないけれどその程度なんよ。

どの程度???

所詮いいかげんにしか生きられない。

いい方がいいくせにその自分の「いい方のもの」なんて知らんぷりしてでも、そうすることで他の人間たちをボコボコに叩きのめしてしまうことになってもジメジメとイジメ倒してしまうことになったとしても。

あくまでも楽に生きたいのさ。
つまり。
みんながみんなちょい悪。

私だとか我だとか強く認識していると思っているのならまずそういうクソみたいな自分についてちゃんと見てみな。

それをしないで何が善で何が悪だとか。。。

ちゃんちゃらおかしい。

そう思えないならいつまでもこのままいいかげんなまんまさ。

インテリジェンスだ?AIだ???

可笑し過ぎて笑いも出ない。

この数百年数千年置き去りにしてしまっている自分にとってのいい方のもの。
これまでの調子では天然資源も使えそうにない今後のためにも、自分自身を慈しむ気持ちで、掬い上げて見てあげてもいいんじゃないかな。

善だ悪だと空騒ぎするのは楽なのかもしれないけれど虚しいでしょ?「空」騒ぎだけに。。。

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