普遍法則と多様性

普遍法則はあるか?

ないとしても求め続けるだろう。

なんで?

多分あった方が整理しやすいから。

日々の生活はわりといい加減で、そこがいい。

誰かが「普遍法則」みたいに持ち込んで、「そーだ。そーだ。全くだ!」とみんなで乗っかってみる時代があったかと思えば、いつの間にかすっかり別のものに移っていったり。

また、みんなで一つの普遍法則に従っているように見える時でも、色々辛い目にも遭うだろうけれども、乗らないでも生きていくことはできる。つまり乗らなきゃ絶対死ぬ、というわけでもない、という多少の緩さがある。

多様性というのは求めるものではなくて現実だとも言われる。

元々が多様なものに、何らかの枠組みをはめて見る。

そんな感じで緩めのときは平和だ。

私が探している普遍法則というのは、人間ってそんな感じで結構緩くやってるんですよ、ということをズバッと端的に示してくれるもの。ぐだぐだ理屈こねないでも、「あー。そうそう。」って納得して、それから様々考えたり考えなかったりを進められるようなもの。

自分と他者の関係のみに没入している、できるなんて思い込まず、うすぅーいヴェールを通して、互いに思い込みがちな自他を眺められるようになること。

思い込みがちなことぐらい結構多くの人が知っている。

でも、そういうものを打ち消そうとする感じを受ける。

それは無理。

打ち消そうなどというのは思い上がり。まずは思い込みがちな自他を、「そういうもんだ」という目で見られるようになること。お互いに思い込みがちなんだから、調整なんていったって、お互いに直接示し合って、これに従えば間違いなしなんて基準のようなものはない。こーいうコンテキストでは譲ってあげたんだし、別のコンテキストではちょっとこちらの主張を聞いてもらうか、とか。。同じことの繰り返しの中でも、自発的に譲り譲られがあったり。。

つまりじぃーーーっと見つめ続けられる、というのが一番大事。すぐに代わりのカッコよさげなアイデンティティを探しに行っちゃだめ。不完全なんて当たり前なんだから。。誰もパーフェクト・ヒューマンになれ!とまではいわないし、なれるなんて思ってないでしょ?カッコ悪いのは嫌いでも。

多様性を認めるとか増すとかいうのもちょっと違う。

現実に交流し合う人と人との間では、常に”整理”へのインセンティヴがはたらいている。つまり多様性は一旦横に置いておく感じになる。この”一旦横に”が案外引っ張られ過ぎちゃうというのが問題。現実には多様性が消え去るわけではない。便宜上一旦整理されたことにした方が、諸々事業を計画したり進めたりしやすく、結果より多くの人が利益を被るからそうする。当然異なる立場、能力、物的資源によって、命令指揮系統が確立されたり、階層化組織が出来上がったりする。そういう組織の安定感のため、ついつい多様性が忘れ去られてしまいがち。やっぱりそうならないようにするには、自他共に普遍法則への憧れ、シンプルな方向へ流されやすい実際の性質・動きを見続けられることが大事。

普遍性を求めるのって。。。結局「もー降りたい」「お願い。全部決めちゃって。」ってことだからね。超無責任。なはずなのに「普遍法則見つけた!」って自慢しようとするんだから。。。

ここまで錯誤が進捗し過ぎてるあまり錯誤に気付けないんじゃさ。それも我々の性質・性向として受け入れるしかないのかもしれないな。。。



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