お祈りから入る勉強とは?

私が通っていた高校はカソリックの修道会が開校した学校であったこともあって、毎週一時限だけだけど宗教研修(研究だったかな?)の時間があった。中高一貫校でもあったけど、私たち高校からの編入組は、一年生の時には全員聖書の一節を読んだり、ビデオを観たりする”研修”が義務だった。(他の生徒は各々”研修”と認められる活動に勤しんでいて、私も2、3年生の時は、校庭付近の清掃活動をやった。)

高校一年生というと、未熟ながらそろそろ自分の頭でいろんなことを考え始める時期でもあり、「聖書のビデオ鑑賞」とか聖書関連のお話とかは、クリスチャンでもない自分としてはそれまで全く思考の範囲に入ってこないものだったけども、その異質感というかとっかかりの意味の分からなさが、かえって興味を引かれた記憶がある。

汝の敵を愛しなさい

右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい

そ、そりゃ無理やろ???みたいな。。。

一つ印象に残っているのが、最後の”研修”の時に、神様について、であったか、愛についてであったか、定かではないのだけれど、ともかく10分か15分ぐらいでなんか書きなさい、と言われて書いたこと。

それまで約1年間、午後のどうしても眠くなる時間帯に、実際時々眠りに落ちたりしつつもビデオ観たり、先生(神父さん)のお話を聞いたりしたことなどさーーっと思い出しつつ、あまり深く考えることもなくともかく書いた。で。書きながらなんだか自分なりの神様とか愛とかいうものについての説明が形を持ったような感覚があった。

神様って一人一人の中にあるもので、まさしくそれこそが愛というものなのでは?

じゃあ自分の中にある愛って何なの?

なるべくありのままを見ようとすること、受け入れようとする心?魂??

で。そんなものはおそらく人間なら誰一人として生きている間に確立することなんてできない。それぐらいの遠いもの。。自分自身の中にあるはずなのに。。。

そんな感じ。

少しずつアレンジは加えられているけれど、私の神様とか愛とかに関する理解の根幹はそのときに書いたもの?いや、「書いた」という経験からほとんど変わっていない。

30年近くたった今言葉にすれば、「ありのままを見ようとすること」ってまさに科学だなーと。

でも自分自身のこと、他者のこと、、となると、哲学的でもあるなー。

さらに科学であれ哲学であれ、ありのままを見ようとするにもツールが必要で、特にアイデアを形にするためのいわゆるストーリー作りにストーリーテリング、それを他者と伝え合うコミュニケーションって大事だよね。。。という。。。まあありふれた体系化。自分なりの。。。

私にとっての高一の宗教研修の経験というのは、たった一年間だけではあったけれどもその後の自分の様々な習慣作りにものすごく役立ったなーという感想がある。

つまり、強制的だったけれども、ともかくビデオ観て、解らないながらもお話聞いて、、、という経験。

全く何の役に立つのか??なんて分からなかったけれども、まあともかくやる(やらされる)ということの意味。

おそらく伝える側としても、クリスチャンであるなしに関係なく、いずれ役に立つに違いない、という思いはあったのだと思うけど、そんな思いも、別にあらかじめ評価指標を設定して、何年後に○○の指数がいくつ上がった下がっただのを設計していたわけではない。

まさに信じる心というか、信念。

これは大切。という。

宗教とか信仰というと、今はどちらかというと及び腰になるというかまああまりどっぷりと浸りこむものではなかろう、というイメージの方が多数派。

とはいえ、信仰心なんて一切ない、なんてことは誰も断言できないだろう。

実際、私たちは先がある程度見通せるような世の中に住んではいるけれど、正確に予測し切れているなんてことは厳密には何一つない。つまり、予測できているんだ、そういうことにしておいた方が多分まし、ぐらいの「価値判断」をしている。別に科学的に厳密な意味での(なるべく主観的判断などを少なくするか、入っていても説明可能なように)事実確認なんてしちゃいない。

結局何かに頼っているのさ。そしてその何かっていうのは結構くるくると色々変わっているはずなんだ。

”信じてる”っていうと、なんとなく一貫性を求めたくもなりそうだけど、もしそうだとするなら、”一貫して動き変わりまくっている”ということなのだと思う。

だから外見上一貫性が欠けているということ自体には実はそれほど大きな問題はないはず。

極端な話、最近の人々は神様のようなのだ。

お互いに「ほら。世の中こんな感じでしょ?見ての通り。」と言い合っている。

なんでそれが神様っぽいのかというと、自分たちが事実、現実と思うものが、よっぽどの馬鹿かキチガイでもない限り、誰にとっても当然事実であり現実だと信じているから。その根拠は概ね科学的実証。科学的に証明されていれば、それに反証を加えるんでなければ、文句は全てただの世迷言。

でも実際の日常会話を見れば明らかなように、多くの人々は世迷言を言わないようにマナーを守ろうとはしているかもしれないけれど、マナーを守るというのは別に科学的に実証されたことのみを口にして、批判も科学的根拠に則った反証をしているわけではない。

それなのに、「ほら。見ての通り。」と言う。

滑稽すぎる。

だって見ての通りって。。。各々何の実証も反証もせずに、なんとなく周りに迷惑かからないようにマナー守っているってだけ。。。それを見たからといって、「事実、現実がみんなにとって同一の科学的根拠に則って似たように見える」なんてことあるわけないんだもの。

「神様のいない世界」と言ってしまうと、神様って私たち一人一人とは別の存在のようなニュアンスになってしまう。

神様のようなものを求めてしまう心。

これに対する注意が向いていない。

現代はそんな世界。

神様のようなものとは、何かに始めと終わりを設定すること、とか、とある物質の唯一絶対の定義、とか。

まあ現代では偉い学者さんたちがやってくれていることね。

でさ。圧倒的多数の人々って学者でも思想家でもないわけじゃない?

普段一体何してんだろ?って気にならない???

私はめちゃ気になる。というか誰かと時間を過ごすってことは、シンプルに「一体この人何考えてんだろ?」って知ろうとすること。

まあこれは私の性格だから、万人に当てはまる説明ではないのだけれど、多かれ少なかれ、自分以外の人々に注意は向いているはず。

「一体何考えてんだろ?」は、言い換えるなら「一体どんなものに、どんな時に注意が向きやすいんだろう?」かな?

自分のことはさておき、そうやって他人のこと気にするのって別に悪いことでもないんじゃないか?と考えている。

まあ考えて欲しくないってケースも多々あって、そういう場合はウザいだけなんだろうけど。。。

でもさ。

関心持つぐらいなら赦されるんじゃないか?って思う。

見てます見てますってガン見するんじゃなくてさ。

匂い嗅ぐ??(ってこれもこう書くと気持ち悪いな。。。)

気配を探る???(忍びかよ。。。)

なんというかさり気ない感じ?

でね。

感知したものは絶対視はしないわけ。

そもそも自分のものではないんだから。

そうやってまずは他人の所有権?を尊重する。

そうすることによって自分のも最大限に尊重する。

ここでも出てきました。関係性

自分自身の何でもいいけど才能とか経験とか尊重してもらいたかったら、自ずと他人のそれも大切にせざるを得ないと思うのよ。

「わかんないくせに見たとか知っているとか言うな!」って自分だけの真実を大事にしたい気持ちも分からないではない。

でもそんなこと言ったら、多分「フン。所詮そんなもんか。。」って思われるのがオチよ。

大事な大事なもの程直接表現はほぼ不可能と肝に銘じるべき。

とはいえ何とか表明せねば純粋なテレパシーなんて使えないんだから永遠に分かり合うこともない。

それもなんだか寂しい。

つまり「絶対これは!」と感じたなら、ありとあらゆる手を尽くすべき。

直接は通信できないってことを忘れずに。

お祈りが大体において決まり文句とか決まった動作を伴うのは、念ずる気持ちの中身は様々なれど、一応「これはお祈りです」ってカタチを決めておきたいから。

お祈りというのは叶ってほしいけれどもほとんど祈ったこと自体に直接の対価が返ってくるなんて思わないでやる。この「ガツガツしておりませんのです。。。」っていうハンブルさがミソ。お祈りの。主にまかせよ。。。

勤勉な学習というのはそれ自体大事なこと。でも。どうしてもガツガツしちゃう。「絶対解っちゃる!!」「解って頂を極めちゃる!!!」みたいな。。。

実際そういうガツガツだってずっと一貫して維持できるのなら全く害なんてない。だってそれができるってことは「これは!」って大事な何かを信じているんだから。そうやって信じ続けることができれば、間違いなくどっかの時点ではっと気付く。「そうか!自分は学ばせていただいていたんだ!」って。

現状問題というか、、、醜さを感じるのが、「こんだけしんどいこと頑張ってやってきたんだから。。。」とかいう甘い連中が徒党を組んで自分らだけの「頑張った」を価値あるものとしておかんとする邪念。

カタチは大事。

でもね。それはあくまでも伝えたい何かがあるんだけど、どーしても簡単には伝わらないからなの。

特定のカタチに格式であるとか伝統であるとかなんとか名前を付けて差別化を図ろうとする試みは枚挙にいとまがないけど、こと学問に携わるような人々がそんなことしていちゃいかんと思うのよ。

学問のカタチ(厳密な真偽判定法とか先行事例の参照の仕方とか)はお祈りに近い。それを厳密に守ったところで世の中がどう変わるか?までは分かりえない。それでもきちんと守っておかなきゃ後進たちが困る。例えば圧倒的に現在のどんな天才よりも知的に優れている人が登場してきたとしても、その人だけが分かっているだけではほかの人々に伝わらない。伝えるためにも方法とか言語とかはシェアされている必要がある。それは同時代を生きる科学者同士だけでなく、ある程度過去にさかのぼっても意味が通じるようにしておかなければ、同じ現象の確認なのに、それが同じと分かるのにいわば無駄な時間や労力を費やすことになる。

特に何百年のオーダーだとほとんど変化しない物質とか運動に関わる学問なら、科学者の世代が十や二十積み重なったって共通理解が得られるように知識体系が整備されている方がいい。

時々物理の世界で「神の方程式」という言葉が騒がれるけど、私はそういった現象自体が人間の神様のようなものを求めてしまう性質を端的に表しているように感じる。答え一発!(昔の計算機の宣伝。。。)

面倒なことはやっぱり面倒なので、、、避けたいわけ。

でもって、そんな気持ちって批判したってどうしようもないよね?だって面倒は誰だって避けたいもの。。。

そういうどーしようもない性質に駆動されている。いくら勤勉に厳密に真実を検証しようとしているっつったってね。

つまり、人間が遍くそんなに勤勉になれるものなら、学者がひーこら頑張っているようなことって、、、多分必要ないわけよ。それが必要ってことは、そりゃ直接扱っている人々のためっていうより、大多数のそれ以外の人々のためなわけ。要するに代わりにやってあげてるのよ。頭良いから。

でね。代わりにやってあげてるからって特別報酬を受けとるべきなのか?ってこと。

私はこれは絶対的にノー!と思う。

繰り返すけど、人間みんなそれほど勤勉じゃないわけ。で。それだと困るなーって思うのがまあまあ賢げな人たちってだけ。自分らのために勝手に勤勉にやってるだけで、なんで特別な報酬がもらえるの??

特別報酬をもらおうと思ったらさ。。。自分らがやっていることを特別に価値あるものとしないといけないし、それはほぼ自動的にやってない人々との差別化、そういう人々の排除に繋がる。でもそもそもは賢げな人々のおせっかいなわけ。おせっかいでも利益が遍く行き渡るならいいけど、既に述べた通りで、いろいろ厳しく作法だのなんだの守ってたってプラスの効果が社会にもたらされるかどうか?なんて分かんないわけ。

要するに賢げだろうがアホっぽかろうがただ生きているってのは変わりがなくて、特定の作法?文化とかしきたりとかもそう。そういったものに特別の価値を置いて、他人に「こっちの方が絶対えーでー」とか押し付けたり、そんでもって自分らだけ生き易くしようなんてのはゲスいってこと。いや。下衆いだけでなくて、いらぬ差別化を生んでしまう。

「うーん。このお作法がぼくちんには合ってるな~」って思うならそりゃお祈りと何ら変わらんわけよ。

お祈りに価値(厳密に言えば”交換価値”)なんて付けられますかね??

無理。

現代の科学的合理的お作法は、交換価値の定義・再定義に関するレジリエンス(迅速柔軟な可変性)向上にこそ向けられるべき。

非合理的な雨乞いの儀式なんかより、気候を念入りに観測して予測を立てる方が実際交換可能なエネルギーの生産・再生産、そしてそれらをより多くの人々の間で融通し合うのに適しているはずなのよ。

どっちのお祈りの方が価値があるとか??下らんことに貴重な人知を費やすのはいい加減やめにした方がいいんでないの?お祈り自体にゃ不特定多数の人々の間で比較可能な価値なんてありゃしないんだからさ。。。

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