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差別問題じゃないんじゃない?

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人が集まるところ差別問題あり。
差別かどうかはさておき、
あまり悲惨なことにならないようにするためにはどうすればいいだろうか?

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私の基本スタンスはやはり知識の民主化。一人一人が考えて決める。しかし、これが難しいから様々な社会問題が長々と解決されずに蔓延り続ける。まずは一人一人が考えて決めるというのがどういうわけで困難であるのかを理解する必要があると思う。

大昔の奴隷と昔の奴隷

全くの推測でしかないけど、大昔の奴隷はとある範囲で暮らす人間集団のセキュリティ装置的意味合いが強かったのではないか?農耕が人々の生計の中心になった後もしばらくは今ほど毎年毎年の収穫は計算が立たなかったはず。つまり、全員を最低限食わすことができるような収穫が得られない年も頻繁にあったものと推測される。そのような状況なら、ダメな年にはサクッと切り捨てられる人間をグループ化しておく、というのは、少なくとも支配者層にとってみれば理には適った制度設計であったろう。グループ化される側としても、食料をいくばくか得られるとしても相当きびしい(生命の維持という意味で)状況であるなら、口減らしとして切り捨てられることと結果として大きくは違わない。ここからさらに楽観的推量を進めるなら、奴隷とその他グループとの間のカベも、大昔は私たちの想像するよりも随分と低かったのではないだろうか?他方、切り捨てる以上それなりの理由は欲しいわけで、それがために、平時より「あいつらは切り捨てられるべきグループだ」というような差別的扱いも同時並行的に進行し、より複雑なものになってはいたであろう。

より時代が下っての奴隷はとある社会における「固定化された身分」の意味合いが強いように思われる。例えばとあるコミュニティで潤沢に食料が獲れ、それが何年も続き、ある程度の備蓄が可能になった後でも、特定の身分の者には米一粒たりとも割り当てられない。そうした身分制度もより安定的な統治目的とはいえ、もはや「死活問題にコミュニティ全体で立ち向かう」といった類の手段ではなくなっている。為政者や奴隷でない者たち、より多くを持てる者たちの責任問題のようにも思えるが、どれだけ貯えても安心できないのは今の私たちも同じ。ましてや現代ほどの生産力も安定性もなかった時代。責めることはできないだろう。ただ、生産力や貯えに応じてそこそこの線を辿る、というような芸当が私たちにはできたためしがないということは、事実として厳粛に受け止めるべきと思う。

徹底的は無理

これを言ってしまうと身も蓋もないのだけれど、為政者だろうが、社長だろうが、マネジャーだろうが、平社員であろうが、職人であろうが、ホームレスであろうが、人間って別に徹底的に考えて生きてはいない。その人たちなりに一生懸命生きているとは思うけど。

「徹底的に」と言うと、言行一致とか、ストイックな生活とかを思い浮かべがちだけど、私はそんな非現実なものは相手にしていない。あくまでも「現実的に徹底的」であること。それすらもできない。そう思い知ることが第一歩。「現実的に徹底的」とは?例えば、誰にだって怠け者な部分があるのは分かっている。分かり切っている。けれども本当に「分かり切った」と言えるのか?ということ。

自分はどういう場面で怠ける傾向があるのか?何がどう怠け者だったのか?どういうケースだからあれはどの程度の怠けであると評価できるのか?そして、怠けであった以上はその責めは如何なるものであっても引き受けざるを得まい。ここまで納得できる。それぐらいが最低かな。「徹底的に考える」の条件としては。これを一人一人に須らく求めるなんて。。「日常の感覚から」がモットーの私にはとてもじゃないけどできない。

無理だけどその結果待ち受けているもの

「怠け」の例に限らず、徹底的に考えてありとあらゆる結果に責任取るなんてところまでいくわけがない。

そこから何が始まるか?

丸投げ?

していることが明らかなら修正のしようはある。

差別するかもしれない自分の中の可能性など全く振り返らず、一生懸命名前で呼び叫ぶ。奴隷。奴隷商人。黒人。白人。レイシスト。国家暴力。自分が明らかにそれらに当たらないならそれでお終い。「おや?自分はその一味と見られてしまう可能性がある?」と感じれば、自分が叫んだ名前について、その定義の確認や分析ぐらいはするかもしれない。けれども、それもこれも「自分は○○ではない」と言うためだけなら救いはない。ましてや、そういう態度が「責任を自分以外のものにぶん投げようとしている」だなんて露も思うまい。

アメリカで警察官が市民を殺害しました。

殺されたのが黒人で殺したのが白人ということで、この事件は人種間差別の問題にされてしまっているけれど、徹底的に考えるのは無理といっても、それはちょっと理屈をすっ飛ばし過ぎてやしないだろうか?

警察権力の適正な行使の問題なのでは?

白人がほぼ無抵抗の黒人を殺害したということで、溜まっていた鬱憤が露わになったとは言えると思う。それだけ、異なる人種間の問題はアメリカの社会に広く深く根を張っているのだろう。けれども鬱憤のぶつけ先が違うし、この事件を単なるきっかけと見做すにしても、やはり警察権力の適正行使の問題として議論する方が、同様の悲惨な事件が防止され、結果的に社会的弱者とされる人々がその被害者になる可能性も減らすことができるのではないか?

死人に口なしをいいことに、生き残っている人間が堰を切ったように「黒人の(正義の)ために〜」とアピールしたり、「私は人種差別主義者ではない」と宣言し出す。

異様な風景だ。

そんな短絡的な小手先の方法で、文字通り沢山の人間が死ぬほど根深い人種間差別の問題を解決したり、(解決する気なんてサラサラないから)問題の責任を回避できると本気で考えているのだろうか?

およそまともな思考回路とは思えない。現実逃避にも程がある。

彼の国は一体どうしてあんな風になってしまったのか?いや。多分あの国だけの問題ではないような気がする。

実験国家

アメリカ合衆国は特異な国だ。未だにたったの240年ちょっとの歴史しかない。その浅い歴史の間に超巨大な国家になった。巨大というのはしかし、主に経済規模に軍事力、人口規模ぐらいのこと。科学技術やエンターテインメントは世界の最先端を走っていると目されているけれど、それらもやっぱり商業規模のデカさでそのような印象を生んでいるだけのように見える。つまり、知性や文化は実際のところどうなの?ということ。

短くも華々しい歴史の陰の部分として奴隷制とそれに引き続く有色人種差別の問題は深刻だ。生まれながらの肌の色で差別するということは現代の人権の考え方からすると完全に否定されるべきもので、アメリカでも南北戦争以前から問題視はされていた。白人という白人が皆それでいいなんて考えていなかった。けれども奴隷制の廃止から公民権運動を経た今も、有色人種とされる人々の方がより脆弱な生活基盤しか保証されていない状況が続いている。生活基盤どころか、、、命さえ十分守られているとはいえない。

私のセオリーによるなら、よそ者をいくら殺しても大して痛みにはならないのだ。つまり、アメリカ合衆国には深みを醸成するはずの痛みがない。これで知性は世界トップとか言われても私は信じられない。今白人と区分けされる人々は、黒人やその他有色人種などに分類される人間を、未だに自分達とは違うものと思っている節がある。下手をすると、黒人同士でもあまり痛みを感じていない可能性もありそうだ。それぐらい満遍なく人の命が軽く扱われているように見えるのだ。

アメリカは移民の国だ。出身地別などでグループはあっても、基本皆よそ者同士だ。そういう土壌では、どれだけ命があまりに軽々しく失われようと、全て自分の責任であるとか、少なくとも自分の属するグループが責任の一端ぐらいは担っている、というような考えが生まれにくいように見える。そして責任を感じない以上、人々の心に痛みもそれほど生じない。「あいつの〇〇がチョメチョメだからだ」と言ってしまえるなら、話はそれでお終い。全部他人事だ。アメリカを見ていると人々は須らくそのように振舞っているように感じる。みんながそれぞれ自分と違うものを殺し、自分と違うものの命の上に胡坐をかいて生きている。表面上は泣いたり喚いたりしつつも。。。

ただこれって真面目にアメリカに限った話とは思えない。たとえ開発が遅れているとされる国々であっても、事情はあまり変わらないように見える。「どいつの△△△が※※※だから」みたいに言える材料って、どこにでも転がってて、そうしないでいる方が難しい。何でも自分(達)でない何者(達)かのせい。今となっては、たとえ小さい規模の、本当に古くからの土着のコミュニティ内ですら、その傾向を避けるのは困難なんじゃないか?

もはや同じ人間だなんて認識できないことがはっきりしているのだから、「普遍的人権・・・」なんて無理強いし合っていたって仕方ないだろう。そんなことより、人間が人間を殺して平気になれる秘密を知らなければ何も変わらない。なんでよそ者なら殺しても平気なのか?白い人たちの祖先がアメリカ大陸はじめ全世界へ進出するようになった時。その時点で、なぜ、どういう経緯で、「黒人や各地の原住民たちは自分たちと違う人間ということでいい」ということになってしまったのか?かの時点で、「同じ人間扱いをしない」という行動を、大して深刻な良心の呵責なしに取り得たのはなぜか?私はそれを知りたい。

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ちょっと奴隷制の歴史を調べてみて、マネジメントの歴史を遡る必要が出て来た。チャールズ・テイラーの科学的マネジメントどころじゃないな。組織化の必要性から始まって、効率性追求ドグマの威力など。「殺す」とか「存在を実質認めない」とかいう意識は全くないな。大昔から。人間を奴隷として使役することについて。

身勝手というか仕方なかったというか。。。いずれにせよその程度が今のところの人間の実力だということは確かだ。ここを全く無視した議論は、どんなに洗練されていようが全く意味をなさないお飾りでしかないな。

人類史上ここまで奴隷が当たり前だと、全く望みナシにも見えるけれど、ただ一つ、少なくとも私たちは身近な人間、とても大切に思える人間の死には心を痛める。それが非業の死であったりしたなら痛みは半端ない。そういうものはまだ間違いなく存在する。その効力が途端に霧散してしまうメカニズム、仕組みを知らなければならない。

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