なぜ「労働」と「報酬」を分断する必要があるか?

内閣府では現在「共助社会づくり懇談会」なるものを主催している。東日本大震災そして福島第一原発の事故、これに伴う多数の人々の日常生活圏崩壊の事例で明るみになったとおり、中央政府・地方自治体と地域コミュニティとの連携拡充は非常に重要な課題である。震災や原発事故などによる甚大な被害の発生がなくとも、少子高齢化が進む低成長社会、世界的な成長幻想崩壊を考えると、これまでのような中央政府主導の計画的経済運営というのはかえって非効率であり、各日常生活圏におけるニーズに即した経済運営それに必要な社会制度整備が求められる。そのようにキメの細かいニーズ把握や経済社会運営は、既存の地方自治体のみには頼れず、よって企業、団体、個々人の協力が不可欠となる。そこでNPOの果たす役割は大きい。

これはNPOに限った話ではないのであるが、とある組織・団体がとある事業を継続的に運営しようとすると、当然ながら適正規模の内部留保が必要となる。いわゆる活動資金であるが、融資を受ける場合であっても、寄付を受ける場合であっても、計画実施に伴う支出を遅滞なく行えなければ、すなわち事業が遅延・停滞し、もって、当初目指されている効果(上記「共助社会づくり懇談会」で取り上げられている関連事項としては”インパクト”)の発揮が難しくなる。

適正な規模の内部留保については、NPOであっても最近では企業会計の基準規則に即した会計報告を行うことで、アカウンタビリティを確保する。「労働」と「報酬」とのリンクについては、この会計報告による説明責任だけでは解消しきれない問題と関わる。

いかなる団体・組織ではあれ、事業を運営するためには手足を動かしてくれる人間が必要になる。したがって、現行の「働いた分だけ報酬をもらう」という慣習に従うならば、事業主は、働いた人々に支払う報酬をコストとして計上する。よって、当然過ぎることだが、「報酬を支払う役割の者」「報酬を受ける者」との区別が発生せざるを得ない。これが特に地域に根差した活動といったものを実施していく上で複雑な問題を生じさせる。

「誰がどのようにして報酬を決定するのか?」

これは簡単なようで、組織運営上非常に重大な問題。

既に述べた通り、適正規模の内部留保は不可欠。したがって必要なリソースを調達し、これを管理する役割の人間が必要。で。もしもそういった役割を果たす人間と、それ以外の人々への報酬額を決定する人が同一或は同じグループに属していると目されるとしたら?

事業規模・予算規模にも依存するが、NPOというのは、そこで働こうとする人々は、一般企業における平均的給与レベルの報酬は求め(るべきで)ないだろう、というようなイメージが強い。他方、資金調達などを行う役割の人間というものは、その業務の性質上、ネットワーク構築力などと称される政治力に長けている。つまり、後者が、「それほど貪欲に報酬を求め(るべきで)ない」という割と多くの人々が賛同或は飲まざるを得ない前提を、政治的に組織統治の手段として活用する可能性が高い、ということ。

かなりオブラートに包んだ言い方をしたが、事業を計画したり、それに必要な物的・資金的・人的資源を調達・管理できるような人間は、いくらそういった人々にありがちな知力により”聖人”キャラクターを作り上げられたとして、現実は”聖人”ではいられないということ。これは実際に”聖人”であったとしても。

「いられない」がポイントで、常に内部留保のある場(組織・団体)に、リソースを調達・管理する人間がいる、という事実があるだけで、人々はそれぞれそういった人間の「イメージ」を抱く。そんなの勝手でしょ?自分自身がしっかりしてればいい。そう思う人は現実というものがまるで理解できていない。そもそも「誰から(特にほぼ無関係に見える輩から)何と思われようと自分自身がしっかりしていればいい」なんてのは、「何とでも思ってしまう輩」なんて「いてもいなくても関係ない」と言っているに等しく、”聖人”はそんなことは言わない。真の”聖人”は、自らの行動でもって、他者には「余計な悪事ははたらかせない」つまりあることないこと勝手に感じさせもしない」もの。自分も事業収入から報酬はもらわないし、他人にも一切払わなければいいだけのこと。地域に根差した活動は、全て、現行定義で言うなら「ボランティア」であるのが理想。実施団体は、働く人々に(運営者も含め)給料なるものは払わない。言い換えれば、会計報告上のコストに、人件費とか役員報酬にあたるものは存在しない、というのがいい。しかし。。。そのためにはお互い衣食住には困らない裏付けが必要になる。

ベーシックインカムが必要となる由縁なのだが、しかしこれは一朝一夕には成るまい。では、現に急がれる「キメの細かいニーズに即した社会・経済運営体制の構築」(「共助社会づくり」)はどのように進められるべきか?

一つ言えることは、いかなる組織形態であろうとも、とある事業を実施するのに必要な物的・資金的・人的リソースを調達する人々、それらを管理する側にある人々、さらに、そうした事業者或は融資実行者に出資する余裕のある人々というのは、自ら行使するパワーに敏感であるべきだ、ということ。自分の仲間内で通用する意義さえ確立されておれば、また、それに従って節度ある行動をしてさえおれば問題ない、ということはない。「あることないこと勝手に妄想する」人々。そういう存在と、完全に分離した別世界に住むことはできないということ。「勝手」と片づけてしまえるのは、一人ではないからだ。仲間がいなければできないこと。

特に地域密着型の事業を考えるなら、このことはぞんざいには扱えない。「ぞんざいに」とは、自分たちに関係ある地域或は事業に限って”聖人”でありさえすればいい、という考え方。物的・資金的・人的リソースを調達管理し、それでもってとある事業を実施する、ということはそれほど重大なことなのだ。どれほど広く深く社会に貢献する事業であったとしても。

「仲間内で妥当と思われる境界線を引く」

この手法は人類史上延々と取られてきている方法であって、とあるプロジェクトを実施し、効果が得られるのであれば、致し方なかろう、という大体のコンセンサスでもって受け継がれてきた方法。

確かに、とある団体・組織或は個人に実施可能な事業には際限があり、「どういった対象にどのような効果を及ぼす事業をどのぐらいのリソースでどのぐらいの期間で実施するか?」はより厳密に定義されることが望ましい。但し、リソースの部分で、人的資源については、より冷徹に、物的投入と同等に扱うことが望ましい。物的リソースは、所与の効果発現のために投入される。人的資源も同様。効果発現のために、「資源」が何を考えたか?とか工夫したか?とかは無視。というか、「資源」の創意工夫によって期待通りや以上の効果が上がったとして、それは組織全体および想定受益者さらに間接的には同業者やもっと無関係と思われる人々への利益(’インパクト’)と理解すればよい。

リソースの種類は様々とはいえ、ほぼ「お金」を介して事業は動くわけで、この「お金」になるべく「人為」を乗せない工夫が必要。つまり、「お金」は様々な解釈を呼び起こすもので、計画された事業の効果を期待するなら、人の解釈がもたらす有形無形のコストはできる限り抑制したい。そのためには、可能な限り、全ての人が、「お金」について、意義(投入の必要性や実際の効果など)を共有できることが重要。

事業資金については、融資ではなく、無条件の寄付で調達されることが望まれる。これは、利子の概念の介入を避けるため。利子は財務会計上のコストとしてのみではなく、「時間」の面で関係者(融資元(ここへの出資者を含む)、事業主、従事者、さらには事業による受益者など)から多様性を奪うため。もっと分かりやすく言うと、融資者をトップとし、受益者がボトムとなるヒエラルキーが形成されてしまうということ。これは、受益者の未来(時間)が、融資者によって決定されてしまう、と言い換えてもいい。利子付きのお金は、いかにソフトなローンであっても、関係者を強く縛るもので、最も割を食うのは事業主体(お金の借り手)ではなく、事業の想定受益者。何故なら、事業主体ー想定受益者間の交渉・コンサルテーションも、融資で規定されるスケジュールの範囲に収める必要があり、したがって、十分キメの細かい対応が難しくなるため。「顧客第一」ではないが、そもそも「共助社会づくり」は誰のため?何のため?なのかを常に確認する必要がある。



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