ギャップ

自分がそうと任じているものと実際のパフォーマンス

面白いのは同じようなぐらいのギャップの人々が自然と集うこと。

まさに類は友を呼ぶ。

集う人々は当然ギャップなんかあるとかないとか全く考えてはいない。つまり、単に似ているから集まる。話が分かる、通じる、胸に響く、似たようなこと感じてるんだけれど、「うまいこと言うな~」とか「そうそうそう」と思わせてくれる。同じようなことでも、少し違った言い方に触れたり、見方を提示してもらえるだけで、私たちはものすごく救われたりする。ちょっとテンパってたテンションが緩む感じとも言える。

自分がそうと任じているもの。

それは半ば自信満々のようで、案外それほど確信的になれない部分もある。

ともかく何か軸になるような自己イメージというのは必要。

軸になるという以上、全く自信がないなんてことはありえない。

確信的になれない部分を埋めてくれるのは、似たものが存在するという事実。

勿論、似たものがいるだけで安心せずに、コツコツと自己イメージについて検証し続ける人だっている。だから、似たものがいるというのは唯一絶対の保証というわけではない。

おもしろいのは、唯一絶対でもないのに、ある程度正確に似た者同士が鼻を利かせて集まること。一体何がそうさせるのか?

鼻が利くっていったい何をどう判断しているのか?

自己イメージの作り方

「私って一体どういう性格をしているんだろう?」って考え始めると、成人して十年も二十年も経っていれば、粗くてもイメージぐらいはできる。自分自身がやってきたこと、他人から言われてきたことなどの記憶も材料となっていることだろう。

記憶というのは案外曖昧で、同じイベントでも、思い出し方によってはかなり違ったストーリーになったりする。ということは、思い出し方って結構大事。しかもそれって、その時々の流行があるんじゃないだろうか?

流行に敏感な人々は集まりやすい。思い出し方とかほぼ気にしないでも、流行さえ追っておれば、少なくとも流行っている時期に限っては、かなり多くの人々とおっきくは異なっていないことが十分に推定される。さらに、時期が過ぎたとしても、流行を追っている限り、独りぼっちになることはほとんどない。流行なんだから。。。

人の知力・精神力・体力には限度がある。流行の流れに敏感でありつつ、自分の思い出し方との兼ね合いまで細かに検証、、、なんていうのは平均的な知力・精神力・体力では難しい。

さらに、自分の思い出し方を一々気にするのと、移り変わる流行に敏感であることと、どちらが楽か?というと後者。乗っているつもりが遅れてたり、乗れてなかったりということが起こったとしても、それは流れゆく流行のせいにできる。それに対して、自分自身のことに気を遣うのはしんどい。ほぼ他者からは分からないことなのに、他者からの反応を受け取ってみないことには、どんな案配なのかが分からない。大概何らかの反応はあるんだけれど、それが生身の人間からのものと思うだけで気が重くなる。肯定的・同情的な反応であったとしても。ましてや否定的・敵対的なものなんか来た日には辛さは倍増する。本当の意味で自分自身のことを気にするということは、反応をくれるであろう他者のこと、しかもかなり多様な他者のことも結構真面目に気にしなければならない。

この生身の人間とのお付き合いにまつわる気の重さが、さらにアンビヴァレントな方法を生み出す。自分のことも他人のこともまあまあ適当に気にするとか、所詮まあまあなのに「おっしゃー。がっつり自己とも他者とも組み合った!」ってことになっちゃってる、つまり、「ギャップが大きい」とか、、、。そりゃちょっとでも生身の人間のこと気にすりゃ、生身の人間ならではの理不尽さもあることだし、「一仕事したぜ!」ってぐらいの疲労感はあるだろう。そんな実感も相俟って、実際は逃げ腰でも、「そうじゃない」って思い込むことだってそれほど抵抗感もなくできちゃうことだろう。

私が、大したことないように見えて、とても重大なことなんじゃないか?と感じているのが、自分自身の振り返りに当たって、本当にがっつりと自分自身のあれこれを見つめ直したりしているんだけれども、他者のことが結構疎かになっていて、そのことにどうもほとんど気が付いていないらしい、という傾向。

しんどいのは分かる。自分自身のことだけに集中したとしても。

でも、なんか、、、それすらも分かってやっているような疑いがある。つまり、「しんどくてもがんばってます」って言いたがっている。

この他人無視の態度。

やっぱり他人無視しててそれに気付かないって、社会的な動物、しかもいろんな感情を持った生き物としては、相当問題なんじゃないか?と。感情が通い合わないから。

でも気にならない。なぜかというと、類は友を呼ぶから。

「そうそう。わたしも!」って人は山ほどいる。「私も!」「私も!」。。。そんな状況なら、まさか”独り善がり”のレッテルが貼られるなんてあり得ないと思うだろう。だって結構多くの人々が同じような感覚を持っている(と信じている)わけだから。「どこが独り善がりなんよ?」ってことになるよね。多分。

問題はだ。そうして自他の間で得られる共感(のようなもの)が、実は各々、「自己を振り返る際に、自己の振り返りのしんどさにかまけて、必然的にくっついてくるべき他者についての想像が相当疎かにされている」。そういう者達の間で起こっているということ。

皮肉というか、、、何か空虚な感じしません?

結構な集団が、各々「自己を批評的に分析してます」とかいって自分自身にばっかり注意が向いていて、その際に他者のことも同じぐらい注意深く見ないと、ちゃんとした分析にならない、ってことにも気付いていないか、或は、意識的にそこの部分を無視していて、そういうやり方でもって生きていることについて、「お互い生きるってしんどいよね~」とか共感し合えている(と思っている)姿って。。。

何度も繰り返すけど、真面目に自己のことを振り返るってことは、同じぐらい他者のことも考えないといけない。ただの想像上のことなんだけど、他者が各々どういう性格で、どんな反応を返してくれるだろうか?ってなるべく正確に理解するようにしなければ、凝り固まった自己イメージが出来上がってしまう。「他者の目を気にし過ぎる」というのとはちょっと違うこと分かりますかね?あくまでも自分自身のことをよりよく知るために、他者からの反応を色々となるべく正確に知ろうとするんです。先にあるのは自分の自分自身に関するイメージ。それが本当にそうなんかなーってチェックする感じです。

自分自身のことは自分にしか分からない。

これは本当だけど、ちょっとウソ。

何でかというと、結局鏡で見たり、常時自己監視カメラを設置してモニターで見続けたりしたところで、そういった自分の像って、自分自身の一部でしかないから。

そういう像を見ながら、「うひっ♪」とか「うへっ!?」とか感じるのも含めたものが、自分なるものの全部。

でね。

なんで「うひっ♪」とか「うへっ!?」とか感じると思います?

自分の像って特に動いているのって中々見ることないから、その意外性のため?

じゃあなんで「意外」に感じるんでしょうか?

答えは、普段から他者目線をイメージしているんです。勿論その他者とはいろんな人々のミックス。置かれた状況により様々な他者が動員されている。

「意外」と感じるのは当然、想像上の他者目線と、実際に他者目線で自分の像を見た時に感じる感覚との間にギャップがあるから。

ついでに言えば、カメラとかを使って自分の像を見たところで、それが本当に他者から見た自分か?というのは分からない。だって、自分は自分だし。。。自分以外の人が自分の姿を見てどう感じるか?なんて想像はできても、断定なんてできるわけがない。だから、常時自己監視カメラとモニターでもって、「他者目線部分はカバーできた」とはならない。自分自身のことも、他者が自分をどう見て、どう反応してくるか?も、ずぅーーーっと仮定と確認の繰り返し。終わりがないから私たちを疲れさせるんです。あんまり真面目にやり過ぎると。

だから、あんまり自己分析とかし続けていると言明し続けるような人は、ほぼ「自分のこと見るのしんどいよねー」って、まあ本当は何でもいいんだけども、「しんどいことをがんばってます」って言いたい気分の人と思って間違いない。

たまにならいいんだけどね。

ずぅーーーっとってのは。。。

繰り返しますが。。。

他人無視だからさ。。。想像上のこととはいえ。。。

その想像の仕方が結局は実際の自分の考え方とか振る舞いにフィードバックされるわけだからさ。。。

ばかになんないんですね。。。

でも。やっぱりクソ真面目に自分自身をよく知ろうとするのは大変だし。どうすればいいのかね?

答えは意外に簡単で。。。

自分自身のこと考えるとか考えないとか考えないで、ともかく現に接する他者を丁寧に見てあげる。その実際の他者に対する態度、振る舞いが、結局自分自身をよりよく知る大切な材料(栄養?)になる。

特に中途半端とはいえ、自分自身をよりよく知ることの大切さを感じている人なら、分かりますよね?その理屈。

自分自身をよく知るって大切だけど、大切なだけ大変ってことを経験しているなら、ちょっと気分(視点)を換えて見てみればいい。「ああ。この人も、この人も、この人も、この人も、この人も、、、、、みんなそれぞれがんばってんだろーなー」って想像できるでしょ?できない???できないってことは、、、典型的なナルシシスティックな目的のための自己愛、文字通りの自己耽溺に陥っていることの証拠。注意しましょう。

気持ちの通った空虚でない交流を増やしていきたいですね。折角同じ社会に生きることになったんなら。。。




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