お金で幸せは買えない

分かっているのになんで「金融」なんだ???

お金は手段として必要?

そうかな??

道具として優れていることは事実。

しかし。。。その他のことは所詮「責任逃れ」「リスクヘッジ」ってやつでしょ??

お金ってエナジーよりも情報が乗っかりやすいものって知ってる??

そもそもはさ、いろんな使用価値と言われる、人々が生きていくのに必要なエナジーにその元がある価値。これを各々異なるんだけども、場合によっちゃあ過不足があるし、じゃあ交換でも?という感じでスタートしている。

がしかし、何が大事って「交換」という行為が円滑に為されることなわけだから、価値ってのは「交換価値」に化けてしまう。つまり、もともとの使用価値とは異なる情報が乗っかる。乗っかるばかりか、そちらの方が主たる性質となる。だってお金は交換のためにあり、交換を円滑にするために必要な価値を表示するのだから。

では、人々は使用価値について何も考えないで交換だけするのか?そんなことはない。各々解釈するわけ。でも各々だから。ほぼ考えないで何も交渉しない人あり、使用価値からとくとくと説明を重ねて価格交渉する場合もあり、、、。問題は、交換とか使用とかだけではなく、心理的なもの(幸福感もその一つ)そして政治的な要素(権力関係や倫理的適正さとか)も関わってくるということ。

道具として優れているというだけでなく、人間が好きになりやすいという魔力がある。お金には。

富が蓄積された感じになる、とか、地位や名声の代用になる、とかいうポジティヴなものならまだいいんだけども、厄介なのは、好きになった本人たちがその事実に気づきにくい力。(だから’魔力’なんだけど。。)

その代表格が、「リスクヘッジ」と呼ばれる「責任逃れ」。

責任逃れられるのって人間にとってめっちゃ魅力なんですわ。ほんと。

最近じゃあお金出すだけでなくて「説明責任」とか求めたりするしね。(口も出す)

そりゃあ金出すわな。金出すだけでそんだけ偉くなれるんやから。

でね。偉くなれないところにゃ金なんて流れないわけだ。

人間なんて、とくに知恵が長けてれば長けているほど適当に仲間作って、仲間内でとおりのいい正義のストーリーをちょちょいのちょいって作り上げるもの。「社会貢献」なんつって、その「社会」なんて所詮仲間内の定義でしかないわけだ。そういった定義なしで、「審査」しないで、お金なんて出さないわけさ。

お金中心のマネジメントは、人間全体の幸せを考える場合、止めた方がいい。

結局大事なのは、口が出せる、ってこと。

どんなストーリーを作れるか?ってこと。

でもってお金がその中心にあるのなら、だれも責任逃れのストーリーしか紡ぎだせないという事実に気づけない。

お金は道具として優れている。

しかし所詮道具。

道具に使われて幸せになんてなれるわけがない。

ではどうすればいいのか?

ストーリーがそこまで力のあるものなら、みんな、須らく、ストーリーを語れるようにしなければならない。

力のある者だけが語ればよい、という理解ではダメだ。

お金中心を逃れるためにも、ベーシックインカム・ユートピアは必要。

真剣にその実現に向けて検討を進めるべきだ。

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