残念な結末

4年間に亘った単身赴任生活が終わった。
間に10か月間の自宅待機があり、その間は家族と暮らせていたので単身は正味3年ちょっと。

しかしじっくりと振り返るまでもなく、「終わりよければ・・・」とは程遠い終わり方であった。

腎臓結石のせいで最後の二ヵ月弱は何もできなかった。

腎臓の石といえばおよそ20年前にも処置したことがあった。その時は超音波破砕装置というもので外から砕いて尿とともに排出させ、よく言われる七転八倒の痛みというものは全く経験しなかった。そういう経験があったため、今回も「ちょっと腰の辺りがヘンに痛むけど石かなぁ」と軽く考えていた。ビールでも飲んでドバっとおしっこ出せば一緒に出ていってくれるだろう。多少は違和感なんかもあるだろうけど。。。

これが大きな間違いかもしれないと気付いたのはたっぷり(ビールではなく)水分を摂りつつ痛みを堪えながら寝転がっていたところ、いつになっても尿意を催さず、どんなに出そうと試みても全く勢いよく出ていかなかったため。。。

飲んでも出ない?
腎臓が機能してないってこと???
と疑問に思いネットで「急性腎不全」を検索すると。。。
腎結石でも起ることがあると。。。

丁度週末に引っかかったため、足も見つからず、土日と脂汗をかきながら寝たり起きたりを繰り返し、週明けに病院へ行ったところがそのまま入院。抗生剤の点滴などしてもらっていたけど全く良化の兆しがなく、隣国(南ア)へ緊急搬送。到着翌朝オペの後一昼夜ICUへ。効果はてきめんで10日ほどで自力で歩けるまでに回復したものの、まだ石の処理は終わっていなかったため任地への帰還はゆるされなかった。

石の処理はさらに2週間程度静養の後、体力回復してからということで、日本での処置を希望した。コロナ対策の自主隔離やら丁度ゴールデンウィークに重なったこともあり、処置は日本帰国から数えて16日目。オペとはいっても尿道から尿管そして腎臓へと管を差し込んで内視鏡で行うものなので通常は三泊四日程度のコースのはずが。。。

そもそも腎不全間近までなってしまったのが、どうやら石が”汚れていた”(つまり何らかの病原菌等に汚染されていた)ことから、ひどい炎症を引き起こしていたため。ひどい炎症というのが本当にひどくて、周期的に訪れる発作は大袈裟でなく都度命の危険を感じさせるもの。日本でのオペの直後にまたそれが起こった。

発作自体もツラかったけど頭に浮かんだのは「絶対三泊四日じゃ回復しないわ」という絶望感。。。絶望というのは南アで経験した約十日間の回復過程をまたまた踏襲せねばならんという絶望。。。ほんと。ちびちびとしかよくならなかったの。。。熱が上がったり下がったりを繰り返しながら。。。多分性質上。。。

そんなこんなで任地に後片付けのため入れたのは最初の入院から約二か月後。

残念だったのはやはり4年間ともに働いてきた人々と結局信頼関係のようなものが全く築けなかったこと。

信頼関係などと言うからには別に病気なんて起こるずっと前からの話なので、たったの五日間の後片付け期間でどうなるものでもなし。

分かっていたこととはいえ無力感や寂寞感は避けられなかった。

賃金労働という種類の仕事に対する考え方が全く違うんだな。

賃金労働で割り振られる仕事なんてきちんとやれて当たり前。それ自体には大した意味はない。ただ多くの人々が現に日々従事している事実に鑑みれば、日々共に働いている者同士、みなハッピーに過ごせるように。そういう面で様々工夫はした方がいいだろう。

大多数はそうじゃないんだと感じる。

逆。

仕事があるんだからみんなでハッピーなんて夢でなくてもキレイごと。

仕事上の地位や体面を重視する人、仕事が回っていれば自分も含め関わる人がどんな人か?なんてのは興味のない人、それでは間違ってるんじゃないか?なんてことは疑ってもみない人、、、。

ポルトガルに帰って来て、久しぶりに『薔薇の名前』を読んだけど、人間ってサイン(記号)で感じるし考えるものなんだなぁと思う。そこに潜む脆さの方がどうやら表に出てしまう。そういう面では21世紀も大して進歩がないようだ。

記号化された人間しか知り得ないわけだけど、人間は所詮記号でしかない(からどう扱おうが構わない)というのは道徳的に良い考えとはいえないだろう。

人間というもの道徳的にはなるべく良い方がいいと思っている。義務感とか正義感とかではなくて、道徳的に悪い方というのは負担が大きいのよね。結構。

とはいえ私たちは常に道徳的に良い方を選び取れるわけではない。日々様々なことが起こる。様々な人々との関りの中で。

そうなると自らを(そして往々にして他者をも)納得させるストーリーを編まざるを得ない。意識的にそうしていようと全く意図なんてしていなかろうと。

意識していなくたって色々できてしまうというのは勿論私たちが世の中の色々を全てサインで感知していて、さらにそのサインを使って物語を作ることができてそのバリエーションはほぼ無限であると言えるから。

サインそして言葉というのは本当に人間にとってかけがえのないものだ。

問題も多く引き起こすわけだけども。。。

ともかく最近顕著な傾向からすると、逆説的だけどあまり信用はし過ぎない方がいいんじゃないか?言葉ってモノを。それを使う私たちの力を、という方が正しいかな。

そこに実際は存在しもしない人間をあたかも存在するかのように仕立て上げているというのは私の目からするとホラーだ。

逆もそう。そこに実際人間が存在しているのにそれとはほとんど無関係な人間像を形作ってはそいつらと話をして実際に生きている人間と話した気になっているとか。

おそろしい。

おそろしい事態にはなっているんだけれど、それはサインの為せる業で、実はほんのちょっとしたきっかけでがらりと事情は変わるはずなのだ。

ただ、ほんのちょっとの違いとはいえ、大群が同じように誤ったままザクザクと無心で行進を続けている状態を修正するというのは簡単ではない。

何ができるか?
4年ぽっちで解答が得られる問題ではなかったのだ。
とはいえこれから私が生きている時間の中で何ができるのか?
残念な結末にならないよう諦めずに手掛かりを探って行きたいとは思っている。

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