生きるための知恵

正義は決して他者に対して主張してはいけない。

誰もが一応「正しい」と思って行動しているというのを大前提にしなければ。

そこは議論の対象とはなりえないのだ。

そうお互いに理解することが尊重だと思う。

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日本は階級社会か?と問われれば、私は違うと答える。

多くの人の知らない間に格差がどんどんと拡がるというのは、階級社会でないことの証明。

もしも階級区分が明確な社会なら、格差が拡がれば少なくともそれに気付く人の方が多くなる。よりリアリティをもって。これは他の階級のことに直接思いが及ぶ、というのではなく、自分の所属する階級の内部の様子だけで、何となく凝り固まってんな。。。というのが”自覚”される、という感じ。

多くの人が格差についてリアリティをもって想像できないことを、単に「想像力が足りない」と言って苦悶の表情を浮かべることの浅はかさ。。。

想像力なんて、なんでもいいからとっかかりがなければ広がるわけがない。人間はスーパーマンでもエスパーでもないんだから。。。

階級意識ってのがまさにそういう”とっかかり”。

日本は階級社会ではない。

だから人々の間に階級意識なんてものはない。

だからこそ本当はかなり制度的、歴史的に根深い生活レベルの違いが存在するのに、自分が経験している生活レベルの外側について想像するためのとっかかりが存在しないのだ。

階級社会でないことは絶対悪でもなければ善でもない。日本で生きてきた人々の知恵の結晶だ。殊更階級対立を煽るまでもない。人々は少なくとも似通った文化の中で生きているのだし、コンフリクトなどは起こった時に適宜対応で十分。予めかちっとしたコンフリクト対策なんて定めておく必要はない。(一番大きいのは、ほぼ全員が、そういった曖昧性の残る方法を選好しているということなのだけど。)階級社会の知恵というのは、そういう予めの対策の意味合いが強い。何故なら、様々なリソースが不均衡に分布していることは明らかで、かつ、その不均衡はすぐさま解消はされ得ないものなのだから。そうであるならば、生まれつき様々に異なる制約を背負わされている人々には、勝手気ままに夢を語らせるよりも、それぞれの持ち場、与えられた条件下では自由に生きていける、と信じさせておく方がよっぽど安定するのだ。社会全体として。(でも、”安定”は結果論であって、当初からの”設計”ではなく、これまた多くの人々が考えたり考えなかったりしながら行動した結果。)

勿論そういった階級固定による対策は非人道的ともいえる。同じ人間なのになんで生まれもって背負わされたものに縛られ続けなければならないのか?富裕階級に生まれたなら文句などないだろうが、それでも窮屈さを覚える人間だっているし、安易な階級ベースの底辺層切り捨てがまかり通る。

さらにいえば、最近イギリスであったEU離脱/残留国民投票の一件のように、昔ながらの階級社会ベースの読みでは起こり得ない結果も出ていて、日本以外でだって、おそらく全世界的に、階級固定による安定的社会の実現、というのはもう夢物語になっているといえる。

グローバルなのか?は分からないけれど、コミュニケーション環境の変化(携帯、インターネット)や、ニュースソースの多様化(SNS含む)のため、結構多くの人が勝手気ままに「多分自分の住んでるとこはこの辺」ってのをイメージしているような感じ。つまり、「結局大きな権力を行使する人々ってそれなりの責任を負うもんだから。。。(ノブリス・オブリージュ)」なんて想定はほぼ期待できないような状態なんだろうと。

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そのような末法的世の中でも、特に日本の言論活動などを見ていて「どーしよーもない絶望感」に襲われるのは、この期に及んでさえ全てが徹底的でない、と感じられるから。

原理的に分析するということがない。

どこかで止まってしまう。

なんで格差が拡がっているのにここまで無頓着でいられるのか?いや?俺ってほんとに無頓着か??そうでもない。。。多分俺以外の人々だってそうだろう。なのになんで実質”なすすべなし”、、、なんだ???

おかしい?

おかし過ぎるから色々な境遇の人々と会ってはみるんだけれども、結局”目から鱗”は個人的経験で終わり。。。他の人々にそれを伝えきることができない。。。

なんでなんだ???


乱暴にシンプル化すれば、原理原則の分析なんてものに有益さを認めていないのだとしか思えない。いや。却って”害悪”だとさえ思っている節が見受けられる。

全てを「想像力」に帰して、もはや対処のしようがない、とか。。。

もしも原因が「想像力」だというのなら、私は「原理原則に立ち戻ってみることの意味が想像できない」と言うだろう。

何故なのか?

一番の要因は皆が似通っていること。

似通っているとはいっても勿論個々の生活レベルは違うし、よって日々体験していることだって似ても似つかない。

だけれども、皆似通っている。

何が?

見た目。

じゃあ中国の人とか、朝鮮半島とかモンゴルの人々は???

やっぱり違う。まずは見た目が。

外見のパッと見が似通っているというのは本当に大きい。

それによって一々原理原則まで戻って色々考え直してみよう!という機会は激減する。

結果、一人一人がひょっとすると生まれながらに全く異なる社会的・歴史的制約を受けているのかもしれない、なんて想像は広がらない。みんな多分そんな違わんでしょ?或は違う違う言ったらみんな違うんだし、、、みたいな、、、両極端な感じ。

どうすればそういった安易な自分自身の中だけの納得感から人々を引きずり出すことができるのだろうか?

私は、こと日本で生まれて暮らす人々に、それは無理だと感じる。

もうそれはそれでいいんだろうとさえ思っている。

浅くて薄くて何が悪い?何も悪くないんじゃないか?

さらに、浅かろうが薄かろうが、一人一人はそれなりに苦労もしながら生きている。

もしも、何とかした方がいいんじゃ?ということがあるとすると、それは実際に強権を維持・発動している層かな。。。敢えて挙げるならね。

何故かというと、彼らのロジックは日本のものとは言えない部分が多分にあるから。なんか不正直・不誠実な感じがするのよね。

微妙なのは、そうはいっても日本でしょ?まあうまいこと日本風に取り込んでいるわけ。だからこそ強権を維持・発動している層のおそらくほとんどが、まさか自分が強権を維持・発動しているだなんて認識していない。

日本風に見えにくいようにアレンジされているとはいえ、昨今顕著になってきている弱者切り捨てのロジックは明らかに西洋起源だ。自己責任という言葉にしてもそう。可視化された証拠で評価したがるのもそう。

切り捨ては勿論日本にも古来からある(例:姥捨て山に口減らし)。でも一々何でか?は事細かには定義もしないし説明なんてしない。仕方ないでしょ?

現代日本ブレンドの残酷さ。定義も説明も実におざなり。だって仕方ないんだもん。って情に訴える。

可視化しといて「あとはご勝手にご解釈(介錯)を。。。それが自由。自己責任ってやつ??」って。。。


ホープレスな気分は何も現代日本に暮らす人々のせいだけではない。

定義・説明の御本山でだって特に頭がいいはずの人々でさえ、別に根源的に物事を考えようなんてしないってことがはっきりと分かったから。

想像力なんつったら誰も無いよ。ほんとに。

生きている以上その責任は一人一人が負う。

そんなシンプルなことさえ根源的に受け入れられない(すぐ何かに原因を求める)。

弱いのよ。想像以上に。人間って。。。

「生きたい」なんて言った憶えないのに生きさせられている。でも(いやむしろ、だからこそ)大事に生きる。なんて中々悟れない。

生きていかなきゃなんないので。。。。

ってすぐ言う。その発言こそが切り捨てになってしまうことなど気付きもしないで。

力のある方の人は一生懸命どれだけ社会貢献しているかの証拠を可視化して示そうとする。だから生きていてもいい。。。(示せないなら。。。死んでも仕方ないね。。。)

人間は別に生きるために生きてはいない。

人間を生きさせているものは「価値」だ。

”人間を生きさせている「価値」”は、万物に生起的に備わっているもの(属性)ではない。

万物がそれぞれそのような属性を持つこととなるプロセス

プロセスを一旦止めて、見ることができる。(現実には、全てのものが動き続けている。)

この仮に止めて見る”架空の”プロセスが価値。

もしも人間にプロセスを仮に止めて見る能力が備わっていなかったら、多分チンパンジーと変わらないだろう。

なんで動き続けているプロセスが止まって見えるのか?

また、現実世界からは常に動き続けているとの信号を受けているはずなのに、なぜそっちよりも架空の情報を重視するんだろう?

架空のプロセスというのはそれぐらい価値があるものなのだ。(仕組みの詳細は別掲

特に人生の意味だとか、なんでカネ稼ぐのか?なんで食べなきゃいけないのか?なんて本当に一切考えたことなんてない、って人でも架空のプロセス(価値)のせいで生きさせられている。

せめて自分一人だけでもチンパンジーやわりかし高等な部類の哺乳類のように価値なんて無関係に生きていけたなら。。。苦も楽もなく生きてそして死んでいけることだろう。(でもちょっと痛みを感じたりはしちゃうかもしれない。ここは絶対ないとは断言できない。自分が殺しちゃった獲物(サル、お母さん)の赤ちゃん見つけてあたかも「おおー。哀れな子よ。」って感じで世話を始めるヒョウの例。)

しかし。。。人間として生まれてしまった以上価値を追ってしまう。

当たっちゃうのよ。予測が。。。

予測なんてしてないし、したくもない??

無理。

どうやったって私たちは架空のプロセスを通じて世の中を見てしまう。それが既に予測になってしまっている。こっちの方が多分いい(マシ)。。。

当たるも八卦当たらぬも八卦。

そうすっきり割り切れるものなら、そんなフレーズだって出来てこなかっただろう。

どう頑張ったって”当たり”の方に反応してしまうし、それよりも、、、”当たり”なんて到底起こらないと分かっていても期待してしまう

ここんところはもう精神論ではどうしようもないものだと弁えなければならない。それが「架空のプロセスを通してしか世の中を見ることができない」ということ。

対策として編み出されてきたのが、禅とか。。。無心。。。老荘思想???あと現代ならシミュレーションのやり方を工夫する、とかもある。いくら架空のプロセスに引っ張られるのが事実としても、いや、それが事実ならば裏を取ればいい。無意識に、は無理にしても。。。

私の希望はそこだな。

工夫を凝らす余地はある。にちがいない。

現に格差は拡大し続けているし、人々はそれぞれ自分の暮らす環境にしたがって、「自分はこの辺にいるから多分大丈夫」ぐらいの意識はより明確に持つようになってきている。

そう。階級社会でないからといって、社会が一切階層化していないなんてわけはないのだ。で。私たちにとってそうした階層は重要な境界線になる。リアリティをもった限界線は絶対に引いている。そしてそうして引かれた境界線を越えるような想像はなかなかしない。だってリアルじゃないんだもの。。。

とっかかりは、まず、リアリティを共有できるはずの者同士の”直接交流”を密にすることかもしれない。

いや。既に境界線内の交流ならみんなしてるでしょ??

多分。

でも実際にしているはずだからこそ希望がある。その質を変えてみる、という。

一体何がしたいのか?何ができるのか?何が妨げになっているのか?大きな理想からささやかな夢まで。。。

それを考えるためのツール。

啓発本やいろんな教科書そのものではなく、それらをどう読むか?

そもそも、書物を構成しているテキストでなくとも、読むべきモノは日常に溢れている。それらをどう扱うべきか?

”架空の”プロセスだからといて、じゃあ架空化の仕組みを調べてみようか!ではない。(別にやってもいいけど)

大事なのはあくまでも「”架空の”プロセス」が人間にとっての現実なんだから、それが「”架空でない”世界」とどう調和をとりつつ利用されうるか?

私の着眼点は、行動意味

実際の行動主(主体)は行動の意味を正確には知ることができない。

行動の意味を仮にでも決めるのは見る人。

つまり、私たちの行動はそれぞれが求めているはずの何かを表してはいない。

それぞれが求めている何か。それは誰かが意味あるものとしてとってくれること。

要するに、「”架空の”プロセス」の価値というのは、意味自体ではなくて、それが作り出す

ポイントは、”反転”のチャンス意識的に作り出すこと。

繰り返し繰り返しなるべく同じようなことを言ったり、同じように行動するとする。そうすると、そのレコードが、言動や行動に直接は関係のないモノからも、それと分かるカタチで痕跡が残る。

その”痕跡を刻まれるモノ”が言動・行動の主体そのものになるのか?第三者の人間の意識か?それともITなどを駆使して開発されるプログラムのようなものになるのか?

ともかくそういう専ら”媒体として振る舞うモノ”。これを作る。或はイメージする。

そうすれば”反転”が起こる。

ただ人間同士お互いにお互いをコピーしようとするのではなく、別の何かがコピーを促すということ。

コピーさせる(されるべき)ものとは?

元々の行動主(主体)の夢

何故そのように回りくどいプロセスが必要なのか?

夢はそのまま行動や言動では示すことができないから。

行動や言動はまず読んでもらわなければならない。


自然界では既に”反転”は起きている。生き物が出現した時から。DNA。

第三者の人間の意識かな?とりあえず私が目指すべきものは。。。

誰もがささやかな夢を持っていると常に意識すること。

それがどうすれば可能となるか?

可能とするために、根本的な錯誤、それもどう頑張ったってはまってしまう錯誤を詳細に説明し切る。


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