あるがままを見たいけどそれは無理

最近魅かれているものがある。

腸内細菌。腸活。腸と脳の関係。などなど。

発端はこちらのnote。

あと『福山雅治と荘口彰久の地底人ラジオ』もかな?

「私たちは頭だけで考えてるんじゃないんだ!」というのがぱっと思いついたことなんだけど、ただ私たちの細胞の9割が細菌類などなどの細胞で、そいつらが脳と腸との相互交信などに重要な役割を果たしていると言われても、さすがに「腸で考える」というのは無理なんじゃないかと思う。結局「考える」というのは脳なんじゃないかと。だから「私、腸でも考えてるので体も丈夫です」なんてのは、腸内細菌さんたちの本来のご活躍についてありのままをとらえ切れていないような気がする。

しかし、何故こんなにマイクロバイオームのことが気にかかるのだろう?考えていてふと気付いたのが見えていなかったものが見えるようになっていく過程に魅かれているのかもしれないということ。そのように言ってみると現代の科学いや学問一般までもそういうものじゃないか?とも。

昔々から人間が知らなかったとはいえない。けれども顕微鏡とかなかったし、見えていたかどうか?というとなんとなく感じてはいたというのが正解なのでは?特に腸内細菌なんてのはこれに相当するように思える。現代の科学はそういうなんとなく感じているものをどんどんと見えやすくしていると思う。

ただ、「見える」「見える」と言っても、視覚で捉えられればよりよく理解出来たことになるのか?というとそうともいえないだろう。科学はなにも視覚化が目的なのではなくて私たちが暮らすこの世界のこと自分のことをより正確にとらえるための材料を集めていると理解するのが適当な感じがする。そしてそう理解すると科学以外の学問一般、私たちがただ単に何かを知ろうとする営みだって大きな違いがないように思える。

科学にしてもその他の知的な営みにしても、集めた「材料」だけが全てではない。事実とか証拠とかはいつも何かに補足されている。よりよく理解するためには「材料」だけが陳列されているだけでは十分でない。

最も頻繁に用いられるのが因果。原因と結果。もっと広くとらえればストーリーとかナラティヴとか呼んでもいいかも。なんでそういう事実が現れたのか?経緯の説明が時間のスパンとして長くなればヒストリーも仲間に入ってくるだろう。

「なんで?」「どうして?」という問いに対する答えがないと中々私たちは分かったという感覚が得られないものらしい。

であるからこそ分かり易く説明してくれる人が重宝される。

ニーチェという人がいて19世紀の終わりごろにそれまでのヨーロッパの知的伝統(キリスト教的な道徳観も含む)をぶった切ったらしいけれど、ちょいと説明が上手い人たちが「哲学者」だの「科学者」だの名乗って実は別に真実事実なんて大して興味がなかったんですというのが本当であったとしても、それは全くの悪意からきているのではなくて彼らの説明ってものにはやっぱりそれなりにニーズはあったし、であるからして結構多くの人々のためにもなっていたのだと思う。

そうはいっても私はニーチェさんの立場に共鳴する。

事実と事実を繋ぐ因果というものは厳密に見ていけば見ていくほどにどっちがどっちなんだか判らなくなる。ところが因果なんてないんだよというのが本当であったとしても、私たちが因果の流れを捨て去るなんてことはこれから先もほぼない。ということは、因果があるかのように色々なことを説明する人達が単なる大ウソつきの詐欺師だというわけではなくて、やっぱり彼らの説明というのは私たちにはなくてはならないものなのだろう。けれどもやっぱりウソはウソ。いつだって疑ってかかることを止めてはいけない。

現代的な科学にしたってただの事実証拠集めだけが仕事ではない。集めたものを意味あるように説明する。その説明や意味というものは絶対的なものではないんだ。

ニーチェさんは知らないかもしれないけれど、ソクラテスまで遡るまでもなく、20世紀後半にはファインマンさんという理論物理学者がいて「絶対的に知り得た」と言えるようになることは決してないと言明している。

世に出回っている説明の類が嘘八百かどうか?というと多分大うそだらけなのだろうけれど、それを疑ってかかるというのは決して否定的な意味を持たない。そうではなくて、よりよく知りたいという真正ポジティブな態度なのだ。

世の中のことも自分のこともありのままを見ることができるならそれは素晴らしいことだけどそれは無理。無理ではあってもやはりありのままを見たいという気持ちは大切。その気持ちをもって世の中のありとあらゆるストーリーを疑ってかかる。誰かの嘘っぱちを暴いて喜ぶ心性というよりも、よりよく知りたいんだという自分自身の気持ちに、そして無理を承知でゼッタイを求めてしまう弱さにも仄かな喜びを感じるようなそういう健全な疑いを持ち続けたいものだ。

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