やりたいことよろこばれること

現代?多分近世(17、8世紀ぐらい)いやもっと昔々から続く職業観かな。。。

どこかで仕事を「罰」のような「イヤなことをガマンしてすること」というものだと思っていたのだと思う。

仕事ってでも。。。私は物理学(力学)でいうところの仕事ぐらいに解釈しておくのがいいんじゃないか?と考えている。

とあるものが別の所に移動する。それに必要な或は消費されるエナジー。

それを何のために誰がどうやるのか???

知りまへん。

だって場面場面で違うもん。仕事の価値とかさ。。。

そうして考えると、仕事の向き不向き、得手不得手、、、もあんまり決定的な意味はないのだと思える。

何故そう考える必要があるか?

いや。単純に向いてること、得意なことって、、、本人が気付くかどうか?もあるけど、、、「本当に無い」って場合もゼロではないから。

そんなことに遭遇したくはないけれども、可能性はゼロではない。

「得意なことなんてない!」がたとえ過剰な思い込みに過ぎなかったとしても、端っから「思い込み過ぎよ♪ほら。アナタにだってできることはあるわ♪♪」って決めつけるのは、案外残酷な場合もある。

仕事なんて暇つぶしだよ♪

暇を潰すのって結構「しんどい」。別に何かを作り出すためにエナジー使うから肉体的に疲れるってだけでもない。

だからお仕事の合間におしゃべりしたっていいんだよ。

何も作り出していなくたって、一緒に働く人といい関係が築けているなら、それだって十分意味のあること。毎晩飲みに行くとかであっても(体には気を付けて♪)。

好きとか誰かが喜んでくれる(ぐらいうまくできる)とか。

勿論生きていく中で大きな原動力になり得る肯定的な感覚だとは思う。

でも根源的なものはそこではない。

何でもいいんですよ。ホントに。

誰かが何か楽しそうにやってたら、それ見ているだけでなぜかこっちまで幸せな感覚を味わえることってないですか?

その人が好きなのか?得意なのか?よくは分からない。

幸せな感覚をくれたんだから、ありがとうって伝えてあげればいいこと。

でも「ありがとう」じゃあ意味分かんないだろうから伝わるように言う。

それだけ。

仕事は暇つぶしなんて言うと不愉快に感じる人も多いだろう。

勿論お仕事に日々専心従事されている方々は尊いです。意味や価値は十分すぎるぐらいあります。

でもそもそもそんなお仕事に巡り会えていることの価値ってのは、充実した気持ちで暇が潰せる以上のものはないです。

周り見れば分かるでしょ?めっちゃ沢山の人があんまり幸せな気分で暇潰せてないの。。。

そういうことです。

仕事なんてもっとリラックスしてとらえた方がいいです。「成果」なんてできる人、得意な人が放っておいても出してくれますから。逆に本当に向いていない人をいくら搾り上げたところで大したもんは出てきません。搾り上げられて辛いだけの人は確実に出てきますけども。。。それもこれも所詮暇つぶしなんだからしょうがない。暇つぶし自体が結構しんどいことなんですから。

どんな形の仕事が理想的か?個々人のことだけではなく、広く社会なるものを支えていくために。

考えることは大事。

でも、沢山の人がしんどそうな現在ある形はちょっと考え直してみた方がいい。

引用させていただいたノートにもありましたが、

「向いていること」は、できないひとのことがわからないからピンと来ない

そんなことにも注意しながら。。。

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