生きてる(た)証

これさえ残れば別になにがどーだって関係ないんじゃないか?

「生きたい」っていう根源的とも思える欲望だって実は受動的に起動されているわけだし、他人の生に対する態度をとやかく言うべきでもないはず。(実際日本の自殺者数は年間2万超え。。。)

勿論「大切に」って思うのは自由。

でもそれもまずは他人の生き様というか態度とかを見て解釈するのが先であって、実際にその他人様がどういう生き方をしているか?しようとしているか?とは無関係。


そこに根本的な倒錯があろうと関係ないよね。ただ生きて死んでいく分には。

代表的な倒錯は、自分自身のことよりも他人の事情などなどを考える方が楽だってことになかなか気付けない、とか。。。別に他人の気持ちが解ってあげられてえらいねーってことではない。

「自分自身のこと」っていっても別にそれって「自分自身が何したいか?」(意志や欲望)とか「どうありたいか?」(理想とか道義的モチベーション)ってことではない。これらは周りに誰かいれば勝手に考えさせられてしまうものだから。

一番面倒な自分自身のことは、「他者にどうアプローチすべきか?」ということ。

これは「自分って他者からどう見られるか?」とも関係するけれど、厳密には区別されるべき。見られるだけなら別に自分の側は何も行動しなくてもいいから。

要点は「行動するのかしないのか?」というところ。

「行動」とはいっても、デモだとかビジネスだとか、集団や組織のコマの一つとして行動するのとは違う。

あくまでも生身の誰かに対して直接行動を仕掛ける。挨拶とか。

挨拶ってバカにできないんですよ。ほんと。大げさでなく。

元気に挨拶♪

って小さいころによく言われたと思うけど(そうでもない??)結構な知恵の結晶だなーと思う。

案外難しくなかった??

ご近所のおばさん、おじさん。

ちょっと怖げな先輩。

毎日自動的に同じ教室に入るような同級生ならいちいち全員と挨拶なんてしないしさ。。。

色々な経験とか周りにどんな人がいたか?とかで人それぞれ通ってきた道のりが違うと思うけど、私にとって今、挨拶ってささやかなしあわせな瞬間をもたらしてくれるもの。

いえね。

挨拶交わした後って結構無理矢理かなーって場合もないことはないんだけど、勝手に顔面が緩んでるのよね。。。

それだけでなんか気分がちょびっとだけでも軽くなる感じがするのです。


そういう直接即自分に返ってくるような行動って、別になくたって生きていける。また、誰かから「あー。確かにそういう人いたなー。」って憶えておいてもらえる可能性だって十分ある。

そう。

面倒なことはしなくていい。

生きてる(た)証なんて大層なこと言わなくたって、実際生きてれば跡に何かは残るわけでね。生きている最中にそんなもん気にしたって仕方ない。

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ヒューマニティとかいう意味での人間性って一体何だろうか?

人情、暖かみ、感情、自由意志、、、、etc.

私が最近疑っているのは、人間ってひょっとしてモノになりたがってないか?ということ。

繰り返しになるけど。。。面倒はしたくないってこと。

でもそれは怠慢とかいうことではない。

生きていくためにほぼ自然にとられる戦略。


そもそも人間って喋るでしょう?もしくは喋らなくても考えるでしょ?言葉で。考えてなくて漠然と何かを感じている時点で既に外界のデータは加工されちゃってるしね。。。


モノになるってのの初歩はマネ。

なんでそれが自然ととられる戦略と言えるのか?

マネしとけばとりあえずマネされたもんの注意を引けるから。

「注意を引く」というと意志がアリアリな感じがするけれど、別に意志なんてない。

もうほぼ繰り返し繰り返しそういうように反応するようになっている。


人間は生き物なので生まれてから死ぬまでの間にかなり見た目が変わるけれど、それでも人間の範疇は超えない。腐って、、、骨だけになっちゃったらもはや人間とは認識されない。多くの生きている人間からは。

ということで、簡単に言えば、生きている間はその間中ずぅーーっと「人間です」っていう信号を発信し続けている。

これは犬でも猫でも同じで、生きてて年老いたりして変化はするけれども、生き物ではない石が石であり続けるのと大差ない。

この常に一定のモノ(生き物?)ですという信号を発信し続けることが既にマネ。

なんで??

世の中のもので全く一切変化しないようなものはない。ということは、ある一定の姿かたちをある程度の期間維持しているということは、繰り返し繰り返し同じような”変化”を続けているということ。

なんでそんなことができるのか?する必要があるのか?

別に理由はないんだけれども、エナジーが満遍なく均一には分布していなかったり、遍くどこででも一定の速度では変化しない以上、偏りは出る。偏るってことは、とある運動が他の運動よりも頻繁に起こるということ。そうなると頻繁に起こる同様の運動の連続は、全体として見れば、変化の度合いや頻度が小さく見える(安定的、固体)し、逆なら変化を感知しやすい(流動的、液体とか気体)。ただそれだけ。

多細胞生物のように何万何億という細胞からなるような組織体なら、それらが束になってそれぞれ細胞が細胞であり続けるように”変化”する。となれば、自分とは違う性質を持つ細胞からの情報だって”読もう”とするのが自然でしょ?だってそいつらがどう動くか?によって自分らも何らかの影響を受けるわけだから。実際単にそばで動かれるだけで何らかの影響は否応なしに受ける。だから本当は”読もう”としてなんかなくて、”読まされている”わけ。本来自分とは無関係と”定義上は”言えるようなものの動きについて。

そうやって本来自分とは明らかに別物に関する情報(そいつらが何なのか?どういう動きをどういう時にするのか?よって一体どんな性質を持っているのか?等々)が解るように”なってしまう”

集合知ともいえるものの大元はこうやって偏りから現れる特定のパターンが幾重にも幾重にも積み重なったもの。ともかく、何故?とか何の必要性があって?なんて疑問は全く妥当しない世界。そうやって形になるパターンがパターンとして認識されて初めて因果関係などを知りたきゃ調べることは可能な状態になる、というだけ。

「パターンが幾重にも積み重なる」というのは、より正確には、パターンのコピーだ。

何でか?

パターンってどんなものでも瞬時には現れ得ないから。どんなに微小な時間しか要しない変化であろうと、何度も繰り返されるからパターンになる。

でだ。

複数の異なるパターンがどうやら関連性をもって、つまりまた別のレベルのパターンを形成しているといえるようなケースを思い描いてみて欲しい。(電子の動きのパターンと、陽子や中性子の動きのパターンとで、原子というパターンが構成され、また異なるパターンの原子同士がとある分子というパターンを構成しているような)

なんでそういった新たなレベルのパターンが認められるのか?というと、元のレベルのパターンが繰り返し同じように現れてくれるから。

さらに重要なのは、繰り返し同じように起こるパターンって、どっかに記憶される、ということ。厳密にはエナジーの変化なので、その変化痕が刻印される感じ。

そうして初めて、レベルの一段違ったパターン認識が可能になる。

人間が感知しているような情報は皆そういったパターン化されたものだ。幾重にも幾重にも。。。ミトコンドリアでのエネルギー生成、血液や体液の流れ、栄養素の運搬、神経細胞間の信号伝搬、、、、。

こうして考えると、DNAやRNAの情報保存機能だって、これらが一方的にその他の物質の動きを統御しているのではなくて、ある程度繰り返し繰り返し同じように運動するエネルギーの流れがあるからこそ実現されていると理解できる。

確かにDNAやRNAは既に起こった様々な運動・変化に関する情報を写し取っている。でもそういったコピーが可能となるためには、無数にある物質がてんでバラバラに運動していてはダメで、やはり根源的な原因は何か?というと世の中(宇宙)に存在するエネルギーが満遍なく均一には分布していない、ということなのだ。そもそも平衡状態なら何もかもが運動しない(エントロピー∞)わけだし。宇宙が絶えず広がっていっているということが証明されている以上、そういう”絶対的な”平衡状態というのは存在しないということなのだ。

生物がその系の中においてはエントロピーの法則に反する動的平衡状態を保つようになるまでには、”コピーを指令するもの(パターン、例:DNA)”がコピーし続けられるようになるようなエナジーの変動パターンが繰り返されなければならない。そうやって”コピーを指令するパターン”が確固たるカタチをもつようになると”反転”が起きる。

”反転”というのは、同じような動作や変化が起こるか?起こらないか?に任せっぱなしにするんではなくて、どちらでもいいんだけど、パターンとして記憶(記録)してしまう、ということ。起こるならもう起こる前からそういうものとするし、起こらない方も実際は起こるかもしれないんだけど起こらないものとする(「その動作は起こらない」という情報を発信し続ける(ようなエナジー変化のパターンが存在し続ける))。つまり、記録(記憶)媒体なるもの。とある物質においては、それ自体が動くことそのものが、いや、ただそこにあるというだけで、様々な他の物質たちに関わるエネルギー変化を反映する。

ということは、私たち人間だって、生きている間だけとはいえ、ただずーっと「人間です」って信号出し続けているってことは、ただそこに存在し続けるだけで記憶(記録)媒体として機能しているといえる。

知恵と呼ぶことができるようなマネはこの後にくる。

他人の様子を見て、様々感じ考え、自分の中で納得のいく説明が完成されて、事実それほど現実離れはしていないことが繰り返し確認される。そんな人生を歩んでおれば、「ひょっとして自分だけの思い込みに過ぎないのでは?」と多少疑問に思うことはあっても、他人の様子を見て感じることに対する信頼性が根本から見直しを迫られることなんてないだろう。

しかし、そもそも見た目の時点で大きく異なる人間に囲まれて生きていたらどうなるだろう?

他人の様子を見て感じ考えることが、現実の彼ら(他人たち)といつ何時も重なり合う、ということはかなり珍しくなる(アテが外れることが多くなる)だろうし、そもそも自分が感じ考えたことについて、「たぶんそれでいい」と納得できるようになるために、相当大量のデータを要するだろう。だって、見た目からして違うのよ。

対して、大人になってから、自分と極端に見た目の異なる人々と接する場合は、本来全く違う他者であるのに、そんなに大量のデータを新規に集めようとはしない。それよりも、既に蓄積されたデータを活用しようとする。つまり、かなり強引に「ま。要するにこーゆーことよね。」って結論付けられてしまうということ。”国際経験”なんて一口に言ったって、実情はそれまでに蓄積されたデータ次第だから人それぞれ様々な体験となる。

21世紀も四分の一に近付くにあたって、特に先進国と呼ばれる所で生まれ育った人々はかなり”国際的”だ。実際経験していなくとも本当にいろんな国や地域のことを知っている。だから、モーリタニアがどこにあるかなんて考えたこともなくたって、そこで生まれ育った人々とたまたま遭遇したとして、コミュニケーションを成り立たせることだってそんなに難しくはない。つまり、いろんな類推が利くのだ。(双方向にってのが大事なんだけども)






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