モチベーション再(々々?)考
まあ何度振り返っても悪いことではなかろう。。。
最近は時間があれば本や論文を読んでいる。「これは!」と思うもの≒興味を引かれるものに頻繁に出遭うからで、したがって読んでいてかなり面白がっているのは確か。とはいえ。。。いつまでも読むだけではねぇ。勿体ないというか、使えないというか。。。やっぱり何らかの形で出力したい。
出力したい気持ちがあること自体はいいんだけれども、気持ち+もうちょい形というか出力のイメージみたいなものがないと、作業にかかれない。せめて「何がしたいの?」ということぐらいはハッキリさせねば。。。
2015年の秋にドクター取って一段落した後もずっと考え続けているんだけれど、2010年からドクターの勉強を始めて以来、「何かが欠けている」という感覚がとれていない。
博士論文の中心コンポーネントである「トライアディックモデル」というのも「欠けている何か」を埋めてくれるという確信の下、何とか形にしたもの。noteでは自己3面説とか言っている。
今もトライアディックモデルが欠けている何かを埋めることはできると信じているんだけれど、未だにそのようにプレゼンテーションできていない。プレゼン技術というか書く技術が伴っていないということもあるのだけど、それと両輪をなすべき、「欠けているモノって何なのよ?」というのを明瞭にすること。これもうまくできていない。
考えたんだけれども「自己振り返りをする時の”自己”」が不在な感じ。これをなんとかしたい。
そのためにはまず、「何を根拠に不在であるといえるのか?」そして不在となるわけや仕組みとは?について調べをつけることが必要。あと、もっと大事なのは「『欠けている何か』を埋めて、何かいいことがあるのか?」
「自己振り返り」とは言ったけど、別に振り返りは意識してもしなくてもいい。つまりどんな場面であろうが、不在が問題なのは「自己」。そもそも私たちはほとんどの場合言葉を使って考える以上、どんな時でも「振り返り」は起こっている。言い換えれば、振り返らないことには言語(やその他記号)は使えないということ。
振り返っているのに自己が存在しないとはどういうことか?
先走り過ぎ。おそらく自己防衛や自己正当化に気を回し過ぎ。
えらい矛盾したことばかり言ってる?
そうでもないでしょ?
自己防衛で最も確実に思える方法は「それは私です」とは決して言わないでおくことだから。
自己正当化にしたって、いちいち「私」を前面に出すリスクを冒す必要はない。ランキングやブランド、その他巷で高評価を得ているもの、「ノーマル」「ルールを遵守している」などと言われているものたちに語ってもらえばいいわけだから。「我を強く出さない」「自分の手柄を喧伝し過ぎない」とかいう謙遜の美徳も、日本人にとっては都合のいい隠れ蓑にもなっているし。
「自分の姿を現さない」というのは個人主義全盛ともいわれる現代で「本当にそうか?『ワイこんなこともやったで~』とか言いまくる奴むちゃ多いやんけ」などと思われるかもしれない。
この「個人主義」というのがまた厄介を起こしまくっていて、現代人に誤った個人観を植え付けてしまっている。
合理的判断をもって、自己の責任で行動する。
わざわざ自分で自分の首を絞めることないと思うんだけどね。。。
無理なイメージを押し付けるようなことするから、”失敗のリスク”ばかり気になってついつい安全に行こうとし過ぎてしまうし、他者の”失敗”も見つけたら鬼の首でも取ったかのように責めまくって「失敗者のレッテル」を貼って勝負付けを済ませようとする。
そういう美しいとはとても言えないやり方で実際自分のことを守れているならいいけど苦しそうなまんまなんだから全く救いがない。
安全重視(専守防衛)なら苦しいのも自業自得で済まされるかもしれない。成果というか、世間に出回るモノでもって自身の価値を証明する(代弁させる)というのがより苦しい。絶えず評判を気にし続けないといけないからね。その苦しさがために、力のある者、立派に成功を収める者の方からさらに大きな勘違いへと進行しやすい。
成功している(或いは、大概成功する)ので、それは「合理的に判断して、自己の責任で行動」しているからだと信じて疑わないし、「合理的に判断してそれが自分の責任なら、悪い結果にだって責任は取れる」だとかいう(ほとんどそういう境遇に置かれないから現実には存在しないに等しい)幻の自分を「私です」と宣言しているつもりになって、逃げも隠れもしない正々堂々とした人間だと思い込んでいる。
どんなに恵まれた楽々人生でも、誰だって常に成功し続けられるなんて思えないわけだから、巧みに予防線は張る。間違っても「私」なんて晒すわけがない。ただ隠すだけならかわいいものだ。エグイと感じるのは、成功しやすい優位な立場、それがために得られる成果を活用して、その地位を維持しようとする。あまり評判に傷が付かない範囲で「何でも完璧にはできない」「自分にも不足しているところはある」などと言ったりするのも、別に本当の自分を晒してるわけではない。どちらかというと楽々生きてることで目立ってしまうのを避けようとしている。または、「恵まれてないけど努力でなんとかここまで凌いできただけ」みたいなアピール。まあ簡単に言えば、優位な立場におれば何とでも言えるというだけのことだ。
なんでそういう態度がいけないのか?
自分のリソースなんだ。自分を守るために使って何が悪い?
「社会がギスギスしたまんま何も変わらない」と言いたいところなんだけれど、個々人の心構えと社会現象が繋がっているかどうか?なんて証明するのも大変だし、私は「『どんな風に自分という人間を形作っていくか?』ということに集中した方が、各々ずっと幸せよ」と言うにとどめよう。
色々事情があるとはいえ、また、生きていくためにはある程度は仕方がないところもあるかもしれないけれど、「何かに『私』を語らせる」という安牌なやり方では、折角生きて死んでいくのに、「結局私って何だったの???」というのが全く何もないままで終わってしまう。これは勿体ない。
また、みすみす命を落とす、全く何の責任もないのに命を奪われる。今までもそしてこれからも無数に発生するであろうそういう命に対して失礼だと思う。
これから生まれてくる命、現に育ちつつある子どもたちにもそれで顔向けできるのか?
社会のために生きなさいとは言わないで、せいぜい自分の身を守ることだけ考えなさいと言い、それを”大人(の切なさ)”だと仄めかす。
寂しいというのが率直な感想だけど、そうやって美しくもないものを若い世代に受け継がせるようなことをやってて恥ずかしくないのか?
私たちは、人間のみならず、ありとあらゆる生き物、はたまた生き物ではない様々な物質等々全部ひっくるめて、みんなで生きているってこと。
もっと真面目に考えてもらいたい。
そんな気持ち。
なので私たち人間の細胞にはミトコンドリアがいるし、その他腸内細菌もいるし、そういう膨大な他者がいないとまともに生きてもいられない、という話に今の私は興味を引かれている。
それをどう語ればいいか?
最近読んだ小説に、「現実の問題はナマのままで扱うことは難しい」という言葉があった。けれども、比喩やたとえ話も、上手に使わなければ何のことだか意味が伝わらない。
熟考、修練が必要だ。
特に修練。
書けそうになくても、やはり書いて練習することは大事。
こういう単なる「自分の書きたいことって何??」というような振り返りも、少しは役に立って欲しいと願いつつ。。。
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