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かねがほしい。

 人生、振り返ってみると能力はないのだが、舞台は大きい。まわりにプロフェッショナルというような人間がゴロゴロといて、なんでこう言った人生なんだろう。
 アニメ「コブラ」を観ていたら、父親が関西弁で、「この主題歌歌ってるひと、うちの親戚やで」と軽く言った。
 「えーそーなのー?」と東急リバブル状態で、その時は驚いたが、親戚一同が「こんなに有名な人だったらサインもらったらいいなあ」なんて言っているところを、実はその時はすでにサインと言ったもの、書けない状態になっていた。
 詳しいことは伏せるが、享年四十歳である。

 中学校で世界的プロ級のバイオリニストがいたことから、なんだか人生が少しずつずれ始めて来ちゃって。病気にもなるし、仕事も出来ないので、暇だから自然と小説を書くようになっていた。
 いや、書くようになっていたとはいっても、読むに耐えるものではなかったらしい。しかし、どこぞの出版社に原稿を送ったら「素晴らしい原稿をありがとうございました」と、早い話がだまされたのだが、本を作る羽目になってしまった。
 本作ってしまったら仕方がない。あほう同然である。そうしたら、うちの近くは相場さんと言う人がたくさんいる地域なんだけど、「嵐」の相場君もここ。
 脚本家になった相場さんという人がいて、今どうしているか知らないが、そのとき「賞」を受賞して一躍脚光を浴びた。すると相場さんの父親が町内会長をしていたのだが、「あんたんとこも賞をとりなよ」と。

 賞なんて言ったって、およそ想像もつかない。賞ねえ? どう賞もないねえ? 途方に暮れていた。
 そのころ、アンパンマンの漫画家「やなせ・たかし」が、「月刊詩とメルヘン」という雑誌を出していて、素人が詩を書いたら、載せてやると。
 書いてみても、全然載らなくて、結局十五年くらい詩を書き続けていた。一万編とか二万編とか、膨大な量を書いていたが、何を書いたか覚えていない。数回掲載されて、雑誌は休刊。やなせ・たかしも94歳で死去。

 そのあと何をやっていたかな。偉い人はまわりに現れては消えていく。その中で、淡々と生きてきた。ほとんど死んだかと思われるくらい、その存在も悟られず、孤立孤独という生活状況。
 仕事をしていないので、何かしなければいけないのだろう。しかし、病気の身であって、これで何ができるだろう。出来ることは暇つぶししかない。やっていることと言えば、相変わらずせこせこ何か書き続けるだけ。
 いい加減カネが欲しいと思ったときに、どこだったっけ? 歌作れってそうしてコンサートで歌うからって。ものすごく病気の重い時だったから、カネが欲しいから、「欲しい」という歌を書いた。
 それが「毎日新聞社賞」だという訳である。ここで賞にたどり着くが、ではカネはどうなったのかと言うと、知らんがな。
 なんかこう、カネになることってないもんなのかな。

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