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大学卒業3年後に自分の卒論を読んで

浪人も留年もせず、地方国立大学を卒業して3年が経ち25歳になった。
コロナの渦中、仕事も暇になってきたので「Googleクラウドに何か読むものを保存してなかったかなぁ」と何気なしにファイルを開くと、そこには22歳の自分が書いた卒論が保存してあった。

決定稿、資料、教授コメント付きの編集中の論文。うわー今見るとちゃんと大学生やってたなぁ。
そんなしみじみとした気持ちで決定稿を開く。

…なんだこれは。なんだこの拙く非・論理的な構成は。
書いた著者本人が内容や主張を理解できないのだから、これを読まされた教授やゼミ生はさぞ頭に「?」が浮かんだことでしょう。

文量的には2万5千字程で、実地調査の結果、各種参考文献から引っ張り出してきたデータなど…一応論文の形式としては整っているが、如何せん内容がお粗末。
一つの主張に対していくつか材料や証拠になるものを集めた形跡があるがそれがちょっとおかしい。
「日本はアジアにある国である」という主張に対して、「アメリカと日本の経済摩擦についての文献」を材料にしてるくらいにはおかしい。

しかし3年前の記憶をたどると、この「おかしさ」については自分でも重々理解していて、しかし期日までに卒論を仕上げなければ卒業資格を得られないというやむにやまれぬ事情から、22歳の私は泣く泣くそのまま論文を提出したのだった。

よくもまぁこんな論文をOKしてくれたものだ。その点に関してはある種の申し訳なさと圧倒的感謝しかない。

この卒業論文を読むと段々とネガティブな思考に脳内が占拠された。
一体自分は4年間何を学んできたのだ?
そういえば大学時代は本当何もしてなかったなぁ。
追っかけやらアニメやらに貴重な青春の時間をつかって、もっとやるべきことがあっただろう!

これ以上考えると嫌な思い出ばかり蘇ってくるので、私は考えるのをやめた。
一方でうれしい気付きがある。「この卒論はおかしい」ということを冷静に分析して校正を始めたことと、数か所でフィールドワークを実施していたという事実と、今はきっと当時よりマシな文章を書けるということだ。

3年間働いて(専門職でも研究職でもなんでもないが)沢山の大人と話して、沢山のビジネス文書を作成して、沢山の失敗を経験した。私生活でも学生の頃は読まなかったジャンルの本を読んだり、ブログを見たり、自分でもいくつかブログを書いたり。そういった経験が「三年前の文章を冷静に分析できる自分」を作り上げたと思うと、なんだかうれしい。

そしてフィールドワーク。自分とは縁もゆかりもない団体にお願いしてアポとって調査して文章にまとめて御礼の手紙を出して。こういう手間のかかることをきちんとできていたのがわかって、自分、意外とやるじゃんと思えた。

大学卒業してなんのスキルもなく生意気な自分をここまで育ててくれた上司や、インターネットや本を通じて私の感性を磨いてくれたいろんなひとにマジ感謝。そして、書くという行為を下手なりにも続けている自分も、エライ!

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