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枯渇

何かにとりつかれたように、ことばを求めることがある。
視覚的にも精神的にも、ことばに飢えてしまうとき。

それが活字化された本や記事などであったり、短いながらもだれかからのおたよりであったり、さまざまなのだが、求めて求めてさまよう。

ことばのもつ力に、何かを感じたい。
ことばが生み出し、作り上げていく世界に、心を飛ばしたい。
その中に自身を置いて、ゆらゆらとひととき別の時間を過ごしたい。

不思議なことに、別の世界で生きる人々の姿に、その生きているさま、地力を秘めた心映えを感じて、自分の心の中が満たされる。
自分のものではないのに、自分の中の澱とか濁りとかいったものを払う一振りがある。

ことばはことばに過ぎないという人もいる。
重みを感じる場面がある一方、軽んじられることも多い。
普遍的なものを表すこともあれば、その場しのぎのもっともらしいものとして形を成すだけのこともある。

そうだ。
それもまた真実だ。

けれども、枯渇しているときに、響くことば、ことばの集まりもまた、存在することはたしかだ。
それは、ことばを発する・生み出す人の、良くも悪くも生々しいエネルギーに裏打ちされているからだろう。

そんなことばたちに、ことばのあつまりに、ことばが示すひとつの物語に、潤されたい。

渇いているきょう、この日もまた。





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