「貯蓄できないから貧乏」ではなく、「貧乏だから貯蓄ができない」〜『貧乏人の経済学』から考える〜

借金してでもパチンコや競馬に行くような人、実際には知らないけども漫画とかだとよく描かれているし、人づてに聞いた話だけど実際にもいるらしい。生活保護受給者なのにそういった行動を取る人もたくさんいるんだとか。

けしからんとか、そういう話をしたいわけではなくて、彼らの思考も他人事ではなく、自分にも役立つものとして考えられるかな、と思ったのでそのあたりを書いてみる。

貧乏人の言い分、貧乏人の経済学

ギャンブル脳の彼らの言い分としてはこれだ。

「現在の窮状から自分が抜け出して、今まで迷惑をかけた人たちに対しての借金諸々を精算するにはギャンブルで一発当てるしかない。」

タチが悪いとお思いだろうか。僕は結構この思考は理解できる方なのだが。この思考の問題点は、非常に短期間で物事を考えていて、近視眼的になってしまっているということだ。

僕は物心ついてから今に至るまで、国家間格差がなぜあるのか、富めるものと貧しきものがなぜ生まれるのかということを折に触れて考えてきたが、その分水嶺は思考のスパンの長さの違い、即ち長期的にモノを考えられるかどうかにあると考え至った。

その根拠になる文献として僕が読んだ中で一番学術的に解説しているのは、『貧乏人の経済学』(原題:Poor Economics)だと思う。これは開発途上国におけるマイクロファイナンスなどのエビデンスから行動経済学的に解説を行っている本なのだけど、僕は英語の原著まで読んだくらい面白かった。

「貧乏人ほど貯蓄ができない」というのは至極当然で、しょうがないこと〜日々のお茶とお菓子の誘惑に抗えるか〜

印象に残っている記述として、以下のようなものがある。

・貧乏人の生活に占める消費財の割合は非常に高い。お茶、お菓子、アルコールやタバコなどの誘惑財のために、手持ちのお金が無くなってしまう。
・貧乏な人が本当に欲しいなと思うモノの多く、例えば冷蔵庫や自転車、子どもをよい学校へ入れることなどは、かなり高価。
・明日生きるのもやっとの状況なので、貯蓄を残しておいたところで、それが使えるようになる機会が巡ってくるかどうかが怪しい。

つまり、貧乏であるという状況下では、貯蓄は愚行と化してしまうのだ。明日死ぬ可能性が高いのならば、あるお金をすべて使ってしまうほうが確かに合理的だろう。

長期的視野に立って暮らしを改善しようと思えば、それなりの将来的展望と、安定的収入が必要になる。この問題に対する一つの解決策として『貧乏人の経済学』の中では、仕事の供給、つまり彼らに定職を提供し、毎月の給料を与えることで将来設計を促すことを提案していた。

宵越しの銭は持たない貧乏人たちと、貯蓄をする経済人たち

とはいえ、たとえ定職があっても将来設計を考える人は極稀だ。僕も実際にパプアニューギニアや、ミャンマーで仕事をしていたことがあるが、給与のほとんどをもらった先から使ってしまい、給料日前になると前借りをしている教師なんかもたくさんいた。

ちなみにパプアニューギニアでは、給与のサイクルは基本的に2週間だった。これはみんなもらったそばからお金を使ってしまうので、小分けに給料を渡すように政府が取り決めたのだということだ。それでも給与の前借りをしている人はたくさんいたが。。。

そんな中でも、たまに貯蓄がたくさんある人たちがいた。そういった人たちはやはり指導的立場に立っていたり、小さなビジネスをしていたり、将来設計として事業を考えたりしていた。

日本でも、将来の夢のために貯蓄をしている人はたくさんいる。僕が見る限り、貯蓄のできる人に共通して言えるのは、自分に自信があるということだ。将来においても自分が仕事をしてお金を稼ぐ確信をもっているため、長期的なスパンで将来設計を考えられる。

注:ここで考えているのは働き盛りの20〜40歳くらいの人間についてだ。「貯蓄をしているのは将来に不安がある人」だという言説もあるが、老後の不安についてはまた別の話だ。

貧乏人が増大する国家はどこに向かうか

経済発展を遂げている国と、そうでない国の家計に対する考え方の違いはこういったところにあるのではないかなと思った次第。過去から将来に至るまで、教育と雇用の安定は国家にとって確かな最重要課題なのだろう。

インターネットが普及し、スマホなんかで容易に様々なコンテンツが得られるこの時代、日々の快楽を追う人間が増えているような気がするので、将来的に経済はどうなっていくのかなとか考えてしまう今日このごろ。

経済格差がグローバルでも、国家内でも広がっているようだけど、僕はせめて目の前の快楽を追いすぎず、長期的なスパンでモノを考えられる立場にいたいと思う。


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