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【なぜ勉強するの?#2】<自由>になるため

※全文を公開している「投げ銭」スタイルのnoteです。

「なぜ勉強するの?」を考える連載です。前回は,この問いを考えるための土台となる考え方を紹介しました。

今回は,この土台として参考にした苫野氏の考えを紹介します。

<自由>になるため

苫野氏は,勉強するのは,端的にいうと<自由>になるためといっています。この<自由>ということについて,苫野氏は以下のように考えています。

ここでいう<自由>というのは、「生きたいように生きられる」ということです。もうちょっというと、できるだけ納得して、さらにできるなら満足して、生きたいように生きられているという実感のこと。これが<自由>という言葉の意味です。
<自由>というと、一切の束縛がない状態とか、なんでもやりたい放題のわがままな状態とかいったニュアンスもありますが、私がここでいう<自由>は、状態というよりは実感のことです。「生きたいように生きられている」と感じる、その実感のことです。
『勉強するのは何のため?』(苫野一徳,2013)

生きたいように生きられている実感を<自由>と定義しています。この定義の自由のことを,山括弧を使って<自由>と,このページでも書きます。

この「生きたいように生きられている」と実感している状態ということを<自由>の定義とすることで,自分の人生の「幸福」につながると考えます。

まず,「生きたいように生きられている」と実感するのはその人自身であるということから,その人以外の人は,どんな人でもその人の<自由>を規定することはできず,その人自身が<自由>を規定することができます。

これはどういうことかというと,例えばAさんとBさんがいたとしましょう。Aさんは,「食べるものに困らずに衣食住の生活ができているときに,生きたいように生きられている」と感じるとして,Bさんは「様々な人々と交流して交友関係を広げられたときに,生きたいように生きられている」と感じるとしましょう。

このとき,Bさんに対して,「もう衣食住に困っていないんだから,自由でしょ。それ以上はわがままだよ」と言ったり,Aさんに対して,「生きている以上は,衣食住に困らないだけでなく,友人をたくさん作ったほうがより『生きたいように生きられている』と感じるよ」と言ったりするのは意味ありません。

なぜなら,「生きたいように生きられている」と実感するのは,その人自身であり,他者からの押しつけではその感情を得ることはありません。さらにそれは,その当人自身も,こういうときに「生きたいように生きられている」としよう。としているのではなく,本能的に感じてしまう。自分の「生きたいように生きられている」は,自分の内面から湧き出てくる感情に照らして考える必要があります。

自分の内面から湧き出てくる「生きたいように生きたい」という感情を達成するための行動は,実は,幸福へとつながっていきます。苫野氏は別の書籍で,幸福の本質について,

幸福は、基本的にはある欲望が達成されたときに感じるものである。そうである以上、そこには大きな<自由>の感度、つまり、「我欲する」が「我為しうる」へと転換され、「生きたいように生きられている」と感じられた、そうした実感があるはずである。裕福になって幸福なのは、裕福になりたいと言う私を規定していた欲望が達成され、<自由>を十全に実感できたからである。(中略)私たちを規定している欲望を乗り越え達成したと言う自由の感度、これが幸福の本質契機であるのである。
『どのような教育が「よい」教育か?』(苫野一徳,2011,p.117)

生きたいように生きたいと欲し,その欲望はどのようにすれば達成できるのかを考え,それが達成できたとき,つまり「我欲する」から「我為しうる」へと移行したときに「幸せ」という感情が生まれる。と言っています。幸福については,いろいろな考えがありますが,私はこの説明はとても納得があります。

苫野氏の考える<自由>を自分自身で模索することが,幸福へとつながっていく。これが<自由>をこのように定義するメリットのようなものだと考えます。

勉強=「力」を得る

ここまでで,勉強をする目的について,以下のように考えてきました。

勉強する目的は,<自由>になるためであり,この<自由>は「生きたいように生きられている」と実感すること。そのためには,この定義に照らして自分なりの<自由>を考えそれを達成する必要がある。そして,それが達せられれば幸福へとつながっていく

では,<自由>になることの達成のために,なぜ勉強が必要かということについて,考えていきましょう。苫野氏は,勉強をすることで「力」を得る。これが<自由>つながると述べています。詳しい部分を引用すると,

さて、重要なのはここからです。
だれもがみんな、<自由>に生きたいと思っている。
でも、<自由>に生きるためには、必ず何らかの「力」がいるのです。
例えば、読み書き算ができなかったとしたらどうでしょう?きっと、電車に乗ることも買い物をすることも困難でしょう。そればかりか、契約書が読めないばかりに誰かに騙されて、まるで奴隷みたいに働かされてしまうとううことだってあるかもしれません。
それはとても<不自由>なことです。
もちろん必要なのは、読み書き算などの基礎的な「力」だけではありません。スポーツ選手になりたいのであれば、そのための「力」がいるでしょう。学者になりたいのなら、膨大な「知識」がいるでしょう。世界で活躍するビジネスマンになりたいのなら、外国語力や世界についての「教養」がいるでしょう。
私たちは、<自由>に生きるために実に様々な「力」を必要としています。
だからこそ、私たちはこういうべきなのです。
私たちにとっての勉強する意味って一体なんだろう?
ーそれは最も根本的には、私を自由にしてくれる「力」を身につけることだーと。
このことを、皆さん自身を振り返ってぜひとも考えてみてください。
自由に生きるためには、そのための力がいる。その力をつけるために、私たちは勉強しているのです。
どうでしょうか?もし皆さんに納得していただけたら、私としてはとても嬉しく思います。

「生きたいように生きられている」と実感するには,それを達成するための「力」がいる。その力を得るために勉強している。とてもシンプルで分かりやすい答えかなと思います。

「どんなものが生きたいように生きられている」と感じるかは,自分自身で規定するということから,どんな「力」が必要かも自分自身の<自由>によって変わってくるということも述べていますね。

前回の土台でも書きましたが,自分なりの正解を見つけることが大切なので,これがベストというものはありません。自分で判断・評価することが大切です。勉強することの1つの解釈として,納得できたら幸いです。

参考文献

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