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【必要な力】 ロンリのちから

※全文を公開している「投げ銭」スタイルのnoteです。

皆さん、Eテレ「ロンリのちから」という番組はご存じでしょうか。
論理ってなんかよくわからないし、頭の固いイメージがあると思います。その論理について、ストーリー仕立てで解説してくれている番組が「ロンリのちから」です。

1テーマについて10分で解説しているので、1つ気になったものをとりあえず見てみると良いと思います。この番組を書籍化したものが今回紹介する『ロンリのちから』です。

この本では番組の1~10までのテーマをそのまま1章~10章として紹介しています。
特にいいなあと思った章を紹介します。

第5章「水掛け論・理由を言う」

ストーリーの演劇の中では、アンドロイドが主人公になっています。アンドロイドには、感情は必要かということについて、「アンドロイドは感情が必要だ」という主張と「アンドロイドには感情はいらない」という主張を登場人物が言い続けてしまいます。この議論をどうするかということで水掛け論がテーマになっています。

登場人物の溝口先生は、

水掛け論にならないために、
①理由を挙げて意見を言う 
②相手の挙げた理由を検討する

ということを言っています。

①でその主張の前提となることを明らかにして、②としてその前提が正しいかどうかを検討していく、これはなかなか学校教育でしっかりとやらないのかもしれません。

しかし、自分の主張を押し通すのではなく、お互いの意見を建設的なものにしていくことは、生きていく上で大切になってくる考え方だなと思いますし、私が主としている数学教育でもなくてはならないものです。
この章の解説として

その際、推論の正しさをチェックする二つの観点(第二回でやりました。おぼえていますか?)がここでも有効となります。「BだからAなのだ」に対して、(1)BからAを結論するところに飛躍はないか、(2)本当にBなのか、その二つをチェックするのです。そして、納得できなければ、「いや、Bではないと思う」とか「確かにBだが、だからといってAが結論されるわけではない」といった形で反論することになります。こうして、水掛け論を脱してかみあった議論ができるようになるのです。
『ロンリのちから』p.86

と書いています。議論をするとどこか感情的になったりしてしまいますが、主張の理由を明らかにして、その理由や論理の妥当性を議論していくということがこのように明文化されていると、感情論から遠ざけることができると思います。

数学の議論での水掛け論を脱する例

例えば、A「五角形の内角の和が540度」であることとB「五角形の内角の和が720度」であるという主張がぶつかったときを考えてみましょう。このときに、すぐに540度が正しいとしてしまってはもったいないです。

①を考えて、Aの理由は、例えば、180×(3−2)、180×(4−2)だから、180×(5−2)という理由に対して、理由は正しいし、論理も飛躍していないと評価する。

Bの理由は、例えば、最初が180(三角形の内角の和)、次の四角形が180×2=(三角形)×2だから、五角形は(四角形)×2=720であるとした際に、前提となる理由は正しいが、論理は飛躍してはいないだろうかということを考えていく。
例えば理由の理由を掘り下げていくこと「そもそも、四角形がいつでも360度であることはどうやって納得したのか」や別の理由からのアプローチ「それぞれの式(180×(5−2)と(180×2)×2)は図的にどういう解釈ができるだろうか」ということなどを議論して深めていくことで理解が深まっていくのではないかと思っています。

第10章「合意形成」

なかなか数学の議論では合意形成ということはなかなか図られませんし、結構(先生やよくできる子などの)鶴の一声や多数決などから判断してしまっているのが現状だと思います。でもこれをしっかりと知識として入れておくだけで、後に話します家族との関係や子育てにつながってくるのかなと思います。

この章ではこんなエピソードがあります。(二人ともアンドロイドという設定です。)

テレス「今度の休み、どこかに遊びに行かないか?アリス。」
アリス「デートか。そうであるならば嬉しい。テレス。」
テレス「そう、デートだ。海に行こう。私は泳ぎたい。」
アリス「山がいい。山頂でお弁当を食べたい。
テレス「海の方が断然いい。泳げないのか?」
アリス「テレスこそ、山を登る体力がないのではないか?」
テレス「どうして私の言うことに賛成できないのだ。私のことが嫌いなのだな。」
アリス「山がイヤなのではなくて、私のことがイヤなのだな。」
テレス・アリス「ふんっ!」
『ロンリのちから』p.157

このような経験ありますよね。賛成してくれない人に対して悲しい気持ちを怒りとして表し、その人の人格を攻撃するまでに発展していたり、自分を「かわいそうな私」に仕立て上げるために変な解釈をしてしったりということを。
このことについて、溝口先生は、

意見の内容について、感情的にならずに検討する。そのときに大事なことは、
自分の考えと違う意見の中に、取り入れられる良いところがないかを探すこと。他の意見から学ぼうとする姿勢がなければ合意形成はできない。

と言っています。そこで、演劇部員は、

波「さっきのケンカの例だったら、解決策を探れると思う。例えば、泳げる湖がある山に行くとか。」
杏奈「夏には海に行って、秋になったら山に行くとか。」
溝口先生「そう。そうやってお互いに歩み寄って、みんなが納得できる案を考えていくの。波と杏奈も他人の例ならそれができた。つまりそれは、客観的に見ることができたから。」
『ロンリのちから』p.158

客観的に自分・他人という立場を取り除いて意見を吟味する。これは本当に難しいことですが、大切になってきます。
議論をするとどこか相手に勝つか負けるかという競争の原理が働いてしまいます。

家族や子どもとの関係でもこの合意形成は大切

この合意形成でふと思ったのが、以前書いたアドラー心理学です。アドラー心理学では対話を大切にしています。子育てでもこの合意形成ということが大切なのかなと思いました。

アドラー心理学の別の本である「幸せになる勇気」でも、人生で大切な課題として愛のタスクというものを挙げており、この愛のタスクというのは、個人でもなくみんな(常識)でもなく、二人の共通の課題を解決していくことと定義しており、「利己的なことと利他的なことの両者を退けること」といっています。これはまさにここまでに書いた合意形成というものですよね。利己でもない利他でもないって本当に難しいですがね。

子どもや家族と合意形成を図る。とっても難しいと思いますが、大切にしていきたいなと思ってます。

第8章「否定のロンリ」

この章の冒頭にこんな問題があります。

司法試験に合格した人は、すべて弁護士になる。

上の文章の「否定」として正しいのはどれか?

①司法試験に合格した人は弁護士にならない。
②司法試験に不合格でも弁護士になれる。
③司法試験に合格しても弁護士にならない人もいる。
『ロンリのちから』pp.122-123

どうですか?答えは③です。

否定についてこの章の中では「風が吹けば桶屋が儲かる」ということの否定を考えています。これは単純に「風が吹けば桶屋が儲からない」ではありません。
そこでポイントなのは、風が吹けば(いつも)桶屋が儲かるという否定というのは

「あることの否定は、そのこと以外の全てをあらわす。」

といっています。なので、「いつも」の否定は、「そうなるときもそうならないときもある。」ということとなり、風が吹いても桶屋が儲かるとは限らないとなります。

第3章「逆さまのロンリ」

これは、章末にあるコラムが興味深かったです。

飛躍した推論の一番ありがちなパターンは、「逆」を使ってしまうことです。そこで、「逆は必ずしも真ならず」という言葉の意味をきちんと理解して、忘れないようにすれば、それだけで推論のまちがいの多くは防げるでしょう。
(中略)「39度の熱が出たならば、会社を休む」が正しくとも、その逆「会社を休むならば、39度の熱が出た」ということは正しくありません。
(中略)「嘘つきは嫌われる」が正しくても、「嫌われる人は嘘つきである」は正しくありません。嘘つきでなくとも嫌われる人はいます。
『ロンリのちから』 p.55

そりゃそうだと思うかもしれませんが、2つ目の「嘘つきは嫌われる」ということから逆も真だと思ってしまって、例えば「あの人は嫌われているから嘘つきに違いない」とかと過度な解釈をしてしまってはいませんか?この逆のロンリを意識していないと、変な推論で変な憶測を生んでしまうことになりかねません。

まとめ「水掛け論にならないために、理由やそこからの論理の飛躍に着目しよう。
意見を対立や譲歩するのではなく、利己的も利他的も退けて、合意形成を図ろう。逆や否定は、直感ではあたかも正しいと思ってしまう。一回立ち止まって考えよう。」






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