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人生の正解ってなんやねん。(2023年ver.)

3年前に書いた「人生の正解ってなんやねん。
2年前に書いた「続・人生の正解ってなんやねん。

誤ってアプリを消してしまい、noteにログインできなくなって、しばらくnoteから離れていた。

冬休みになったのでふと思い立ってnoteに再ログインし、久しぶりに自分のnoteを見返していたら懐かしくなった。
この時の自分、こんなこと思ってたんだなとか、うわなんだこれちょっと恥ずかしいわと頭を抱えるような記事もあったりして。
でも、そんな「当時の思考」が残っているのもあとから見返すとなかなかに興味深い。

なので、もはや勝手にシリーズ化しつつある「人生の正解ってなんやねん。」を今現在の価値観で綴ってみることにしました。

人生の正解についてあまり考えなくなった。

人生の正解って、久しぶりに聞いたなその言葉、っていう印象。
でも、あまり考えなくなったことはいいことなのか悪いことなのか、それは簡単には判断できない気がする。

大学生の頃は、モラトリアム特有の自意識過剰さだとか、自己承認欲求だとか、隣の芝生が青く見えてジタバタしてしまったりだとか、とにかく色々考えていた。考えざるを得なかった。

そうしないと今の自分が消えてしまいそうで、この先の自分も見えなくなりそうで、不安で仕方なかった。

でも今は?
社会人になっても、隣の芝生が青く見えてしまうことはある。全然ある。
ただ、そういう答えの出ない不毛なことを考えてしまうのは決まって「心がヒマな時」ということに気づいた。

大きな仕事が一段落した後。
出張の合間の自由時間。
なにも予定のない休みの日。

そんな時に、隣の芝生を見てしまったり、今の自分の人生これでいいのだろうかと考えてしまったりする。
ただ、社会人になってから「心がヒマな時」が圧倒的に減った。
だから、人生の正解についてあまり考えなくなった。

人生の検品作業を恐れる。

社会人2年目になり、仕事がいそがしくなった。仕事量もそこそこある。
日々に追われ、いつの間にか1週間が終わる。

たしかに、充実している。
やりがいのある仕事があり、時間もあっという間に過ぎる。
好きなところに住み、好きなものを好きな人と食べることのできるこの生活には、かなり満足している。

ただ、このまま流されていってしまいそうな不安がある。

このまま日々に追われて、気がついたら「わたしの人生」の検品作業が終わって出荷されていて、誰のものでもない「わたしの人生」だったはずのものが、なんだか色褪せて見えてしまった時を恐れている。
「わたしの人生」が大量生産されたもののうちの一つだったと気づく時、気づいてしまった時を恐れている。

特別じゃないけどわたしだけのもの。

でも、さすがに25年も生きれば何となくわかってくる。

別に、人生の正解なんて大そうなものなんてなくて、悩むほどのことでもないんだってこと。
隣の芝生ばっかり見てしまうのも人間、自分の人生だけは大量生産じゃない、特別だって思いたいのも人間。

でもそんな時に、いかに自分の人生に、現実に戻ってこられるか。
自分が今いる持ち場で現実に向き合ってがんばれるか。
地に足つけて踏ん張れるか。

自分の人生はなんら特別なことはないが、それでいい。
悩みや葛藤もわたしの人生でわたしだけのもので、今ここにいる、こんなことをしている、という現実を喜べる。
そんな人生がいいな。

「人生の正解ってなんやねん。」

会社の先輩方は、毎週末家族でキャンプに行ったり、海に行ったり。冬はスキーに行ったり。
たまに奥さん、旦那さんと喧嘩をした話も聞くけれど、それでも人生楽しそうだなって思う。

でも、それだってわたしから見た一面であって、実際にはわからない。
たぶんそれぞれに悩みがあって、時にないものねだりなんかもしてしまったりして、それでも日々を生きてきたんだろう。

「人生の正解ってなんやねん。」を問い続ける旅はまだまだ続きそうです。

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