会話と文章
保坂和志の小説を読んでいると登場人物の思考がそのまま漏れ出したように、庭の木を見て昔を思い出して、その思い出したことのなかでそういえばと他の話に移行してゆき、急に猫が飛び出してきて話が終わったりする。たしかに実際の思考はそのように自由にうつろいゆくが、小説の文章としてそれを部分的にであれ再現するのはめずらしい。文章にしてしまうと、整理され必要な言葉だけに取捨選択がおこなわれ、前後の論理的つながりを保とうとする力が否応なくはたらく。その作業により多くの情報は損なわれていくとも言える。
会話はそれに比べれば、脈絡のなさや誤解によるすれ違いが許容される余地がうまれる。完全な相互理解はそもそも不可能なので、間違って話が進んでいくことは自然なことなのだ。さらに会話では意見の相違も自然なことなので、ただの文章よりも結論を書かないことが成立しやすい。そこに会話文やインタビュー文の魅力はある。
「最近あまりインタビュー文を読んでいない気がするな。」
「わたしはそもそもインタビューなんてあまり読まないですね。何のインタビューを読んでたんですか?」
「音楽誌のインタビューをよく読んでたな。昔ロッキンオンに架空インタビューってのがあって、ジョン・レノンにインタビューしてアルバムについて答えたりしてるんだけど、全部架空で想像で書いてるのがあったな。あれはおもしろかった。あとはSNOOZERをずっと読んでたな。でも海外アーティストのインタビューって日本語訳するときに口調とか『おれ』と訳すか『僕』と訳すかとかで印象違ってくるから全部ちょっとは架空インタビューみたいなところがあるよね。」
「最近は動画コンテンツとかpodcastなんかが増えたからインタビュー記事ってのは減ってそうですね。」
「そうかもね。もうインタビューできない人への架空インタビューは動画撮れないから需要があるかも。」
「ないでしょ。」
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