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【エッセイ・ほろほろ日和4】32歳クライシス ~小笠原逃亡記①

 休むことなく走り続けていた足が、突然止まった。32歳の時だった。
「頑張れば報われる」「努力は裏切らない」そう信じて走り続けてきたのに、1ミリも前に進むことができなくなった。

「頑張っても、報われないじゃない」
「努力しても、何も上手く行かないじゃない」

 私は、自分の不遇を嘆いた。まぁ、25歳も年上になった今の私なら、
「そりゃあんた、世の中そういうもんさ」
 と気楽にカラカラと笑えるけれど、当時は激しく混乱した。
 その混乱は、身体を破壊する。歯磨き中に歯ぐきから大量出血する。ナイフで刺されたような痛みを感じて転倒する。頭痛、腹痛、腰痛に喘息が同時多発的に身体の中で暴れまわる。毎晩、ステージに立って歌っていたが、泣きたくなるほど身体が痛くて重い。疲れ果てて部屋に戻り、倒れるように眠りにつく。寝ることだけが唯一の安らぎ。それなのに、寝入って数時間後に息が止まる。
「くっ、苦しい…!」
 もうこれで終わりかと死を覚悟した瞬間に目が覚め、ゼイゼイと荒い呼吸を繰り返す。「深く眠ると、呼吸のしかたを忘れるのか」と私。そんなバカな。睡眠時無呼吸症。れっきとした病気だ。
 いったい、私の身体に何が起こっているというのか。そのうち、精神状態も怪しくなってきた。突然理由もなく悲しくなり、涙がボロボロとこぼれ落ちる。子どもの頃、友だちとケンカしたことを思い出し「私は嫌われてる」と果てしもなく落ち込む。人前に立って歌っているのに、人と会うことが怖い。私を見ないでとステージの上で怯える。そんな自分を誰かに知られたくなくて、死に物狂いで明るく元気な「私」を演じる。相当な病みっぷりだ。
 
 そして、止まった。
「ごめんなさい。もう、できません」
 仕事先に言い残し、私は東京から姿を消した。
 
 出来るだけ遠いところに逃げよう。果てしもなく遠いところに行くんだ。でも、日本語が通じるところね。それは、どこ?

 その時唐突に、離れて暮らす弟の声が胸の奥に響いた。

「姉貴も行けば良いのにぃ! オガサワラ」

 オガサワラ…? そうか! 小笠原諸島か。数年前、弟が会社の出張で渡った島だ。東京から1300キロも離れている小さな島々。アクセスは船のみ。しかも片道28時間以上もかかると言う。遠い。ブラジルより遠い。
「遠いよなぁ…オレ、もう戻って来られないかも…」
 涙目になって、弟は出掛けて行った。それなのに2週間後、陽に焼けてツヤツヤした顔で帰って来た弟は、別人のように引き締まり輝いて見えた。

「うっそぉ~! たった2週間でこの成果?!」
「いや~~そうなのよ! 天国天国! オガサワラ、最高~!!」

 もともと解り易く出来ている人間なので、これほど呆気なく効果が出たのだろうと、その時は聞き流していたのだが、今になって彼の楽しそうな声が蘇って来る。

「オガサワラか…」

 そこは古びた私を捨てられる場所だろうか。弟の言う様に天国なのだろうか。私は家を飛び出し、小笠原行きの船のチケットを買った。

 その日、竹芝桟橋は重い雲に覆われていた。
 小笠原へは唯一の定期便「小笠原丸」に乗り込むしかない。9月末の乗客は少なく、船底に近い3等客室は閑散としていた。船が沈むと、ここの客が真っ先に死ぬんだなと思うと、想像しただけで暗澹たる気持ちになる。どうしよう。帰ろうか。
 広いカーペット敷きのフロアには、人ひとりが眠れる大きさに畳まれた毛布が、お行儀良く列を作って並べられている。ここで雑魚寝をして見知らぬ人と28時間も過ごすのか。なんか、惨めだ。その上、用途の分からない金属製の洗面器が、毛布の間に点々と置かれている。わびしい。ごめん。無理。やっぱり降ります。
 その時、ドラが激しく鳴らされた。えっ! 今でも出航の合図はドラなの? あ! 嘘、降ります! 降りますよ~! と叫ぼうとしたが、船はゆっくりと桟橋を離れた。

「しまった…!」

 出航してからほんの数十分で、早くも全身が後悔に包まれた。強烈な船酔いに襲われたのだ。しかもあいにくの悪天候で海は荒れ狂い、立つことすら出来ない。船底の床に張り付き、毛布にくるまったままフロアの片隅で泣き続けた。気持ち悪い。何も飲まず、何も食べられず一睡も出来ないまま洗面器だけを抱え、(そうか! これは嘔吐用の洗面器だったのか!)私は実に29時間半の拷問、いや船旅に耐えた。

「小笠原諸島父島にまもなく到着致します」

 翌日、船内にアナウンスが流れた。神様の声のようだった。残った力を振り絞り、ふらふらとデッキに這い上がった。その瞬間、目の前に開けた景色に仰天した。

「うぁ!青! すっごい青!! 紺碧の海! ううわぁ~~! 初めて見たよ!」

 辺りの人が振り向く程、素っ頓狂な声を出してしまった。南の海の青さをこのとき初めて知った。この深く激しい青。何度もテレビや雑誌で見慣れていたはずの海だったが、本物を見るのは初めてだった。これがほんとうの海の姿なのだと思った。

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 太陽が真っ直ぐに照りつけている。とびうおがキラキラきらめきながら飛んでいる。イルカが群れをなして船の周りで遊んでいる。嘘だろ。なんだこれ? くらくらした。船酔いのせいばかりではない。はじめて見る物ばかりだ。すごいところに来ちゃった。正直にそう思った。

 この紺碧の海と空を見ただけで、心と身体に長い間溜め込んでいた澱のようなものが、一気に浄化されたような気がした。
 私の選択は間違っていなかったと、確信した。


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