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【エッセイ・ほろほろ日和15】名前を呼ばれること、声の記憶

この二~三年、近しい人の訃報が続いています。
私の年齢もそれなりのものですので、ある程度の覚悟はしていました。
けれど、その人に「もう、会えないんだな」と思うと、寂しさが募ります。

母、義父、親戚のお姉ちゃん、友人、お世話になった方々、レッスンに通って下さった生徒さん……

お別れはいつも突然なので、彼らのことを思い出しながら、少しずつゆっくりと気持ちの整理をつけるしかありません。
不思議なことに、思い出の中の彼らはみんな笑顔です。
生きている間は葛藤にまみれていた母ですら、笑顔で登場してくれます。
そして同時に、彼らの声が脳内で再生されます。
みんな必ず、私の名前を呼んでくれるのです。

「まみちゃん」「まみさん」「まみおくん」「まみセンセイ」

母の鼻にかかった低めの声、義父の少ししわがれた硬めの声、
友人の艶やかな声、生徒さんの響きの良い声。

今はもう会うことのできない彼らの声が、今ここで聴いている声のようにいきいきとよみがえります。

録音や録画で残されていない彼らの声を、私が死ぬまで忘れずにいられたら良いのにと思います。

記憶は、五感と結びつくとより鮮明になるのでしょうね。
香り、触感、味、色、音とかね。
そしてたぶん、受け取った時の自分自身の感情までも重なると、
かなり確かな存在感を持って、記憶に定着するような気がします。 

笑顔で名前を呼ばれた時、きっと私、嬉しかったんでしょうね。

そういえば、ずっと以前、心療内科のデイケアでボイトレを行っていた時、
「自分の名前をリズムに乗せて言ってみよう」
というエクササイズを考案しました。

これが、とてつもなく不評で。

患者さんたちは、自分の名前を呼ぶことや呼ばれることに対して強い抵抗を感じたようです。

ある患者さんは
「自分の名前を呼ばれるときは、怒鳴られるか殴られる時だったから
自分の名前そのものが、恐怖だし大嫌いだ」と言いました。

そんな反応になるとは思ってもいなかったので、かなりショックでした。
エクササイズは完全に抹消しましたが、その日から私は、目の前にいる人の名前を、なるべく丁寧に呼ぶことを心掛けてきたように思います。

名前って、単なる記号ではないですものね。

だから、間違えることが物凄く怖いです。
「〇〇ちゃんって、呼んでいい?」と確認することもあります。
「やだよ」とバッサリ断られたこともありますけれど。
声に出して名前を呼ぶときは、より神経を使っているつもりなのですが、なにせ根は粗忽者なので、しくじることも多々あり、そうなると平身低頭して謝るしかありません。

名前を呼んでもらえる。
名前を憶えてもらえる。
名前を呼び合える。

それは、誰かを受け入れ、受け入れられた証しのような気がします。
そして、思い出すたびに心がふわりとほぐれるのなら、そこに愛し愛された、かけがえのない時間が確かにあったのだと思えるのです。

名前を呼んでもらえない寂しさも、忘れられる虚しさも、怒鳴られる恐怖もみんな知っていますが、穏やかな気持ちで名前を呼び合える人たちがいて、忘れられない声もある。

それは、とてつもなく幸せなことだと思います。

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大好きな芸人さんから「まみさん、今の面白かった?」と言われたい。
そんな夢想をする春です。

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