雑記20/08/03月 未だストリップのことを、坂口安吾「ストリップ罵倒」を読んだ、朗読もした、「芸」について

 

坂口安吾「ストリップ罵倒」を読んだ。読んだし、読み上げた。朗読をしたので、そのうちYouTubeにあがります。安吾は1955年没で、著作権が切れているのでね。

(追記:あがりました。)

著作権といえばいまは没後70年? まで有効で、ある時にそうやって法律が変わって50年から70年に期間が延び、すでに切れてた人はそのままだが切れる直前だった作家はそこで「ゾーン」に入ってしまって、あと20年。ああもう少しで朗読したり、改作したり、「全一冊」なんつってタウンページみたいなデカさで生涯の作品を一冊にして出版してやろうなんて思っていた人たちがとても困っているのだけど、

それは今は関係ない。

「ストリップ罵倒」である。

これは、「安吾巷談」というタイトルで『文藝春秋』に1950年の1年間連載されたものらしい。その、八月号。暑いさなかにストリップ見物に出かけた安吾の感想が書いてある。結果はもうネタバレというか「罵倒」なのだけど、これを読むに、70年の時を経て安吾とあたしがつながった。

これは安吾による1950年の「ストリップ罵倒」であって、現代ストリップなら、もしかすると「礼賛」になるんじゃないか。


安吾の論旨は明確だ。ストリップといえども舞台であり、そこで美しい姿であるためには「芸」が必要だという、それだけである。1950年には「芸」を見出せる踊り子がほとんどいなかった――良かったと名が挙がっているのは「ヒロセ元美」と「吾妻京子」とあと数名のみ――ようだ。

罵倒の論旨も明確で、舞台に上がってさえいなければ綺麗なハダカはたくさんある、色気もある(※現に安吾は、別の原稿「モンアサクサ」で、舞台より楽屋のほうが色っぽい女優の多いことを述べている)。
しかしそれは「一緒に寝室へ行く」のなら魅力的でもあるが、舞台の上での魅力とは別で、
舞台は「動き」、「芸」に尽きるというのだ。

これを現代的に、下世話に言い換えれば、「ヌキも無いのに」。

ヌキがないのだから、体の曲線だのオッパイだのの単純な魅力は発揮されない、芸、芸、芸で生まれる色気、それだけだ。罵倒の言葉として安吾は、芸がなく体の造りだけのものを「パンパン・ストリップ」と称していて、これは全く罵倒。


罵倒は罵倒だが、ストリップを舞台芸能とみなし、ハダカの特権的な商品価値を認めない安吾の態度は、現代的であるというような気もする。


『女の子のためのストリップ劇場入門』に寄せられた批判ツイートで不思議だったのは――そのツイートたちが醸し出す「世界観」で不思議だったのは――女性の裸を、それだけでずいぶん商品になる(される)と捉えている、というところだった。

現代は、それこそ搾取の結果なのかもしれないが、戦後よりもハダカは暴落し、ハダカというだけでは、とても商売はもたない。それこそあたしなんてストリップ劇場へ向かう途中に、何度言われたことか。

「お兄さん本日は? ストリップゥ〜?!

つまんないですよぉー、ヌキもないのに!」


ストリップの1公演に、出演者、おおよそ6人。

6人がただハダカを見せていくだけで劇場が存続できるか。
それは実に、1950年の発想ではあるまいか。

現代どうにかストリップ劇場が存続しているそこには
批判ツイートが見逃しているミッシングリンク(?)がある。

なぜリピーターを生めるのか?
ハダカが無名のハダカでなく、「推し」が生まれる、熱心なファンを生むのはなぜなのか。


そこに、踊り子の「芸」があるだろう。


そして、「芸」が生まれる土壌には、ストリップへの踊り子さんの本気があるのであって
そこには、批判ツイートの「世界観」とは違う世界が広がっている。



あと海外では「クレイジー・ホース」。あれはバレエ経験者がオーディションを受けに来る、ハリウッドセレブも見に来る場所。だからってわけじゃないが、ともかく最高。映画も観てください。


ということで。



そういえば、心構え「舞台の上で女に生まれなおす」ことの例として安吾は歌舞伎の女形を出すのだが、梅沢富美男さんは毎月ストリップを観に行くことにしているという。大衆演劇の女形だもんなあ。本当であってほしい。

さかぐちあんごに似ているさかぐちあんりは、あと少しのところでストリップ界が追い出してしまった・・・・・・


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