雑記20/6/28日 ラジオなんですけど最終回、テレビはダメか、視聴者・プレイヤーへの暴力的な時間の使わせ方、アプリゲームとパチンコ、リンダキューブ

土曜日、「久米宏 ラジオなんですけど」最終回、伊集院光さんがゲスト出演した。

「伊集院光とらじおと」とは変わり、ラジオの先達(75歳)から次世代(52歳)へのバトンという感じ。
その中で、永六輔さん、大沢悠里さん、久米さん、みな「(今の)テレビはだめだ」の旨を語る、というくだりがあった。伊集院さんは「おれはテレビ結構でてるんだから賛同させようとしないでください!」という、

テレビというのは、かつて「一億総白痴化」と言われたように(誰が言ったんだっけ)、考えることをしなくていいように流れる、というのがもっぱらの意見。
即物的、動物的、反射的、ましてや暴力的・・・。

最近、スマホゲームのこととかと照らして考えていたのだった。

バイト中に、テレビがついていて眺めるゴールデンタイムのテレビ、例えばクイズ番組。ここ数年ぐらいは、小学生レベルの問題が解けるか? という類が多い。
(「平成教育委員会」は捻った、思考力を問う傾向だったが、昨今は基礎知識、いっても”よくある勘違い”とか・・・(「役不足」を謙遜に使うのはマチガイ!みたいな))

それを、豪華なセットと、巨大スクリーンと、大人数と、緊迫する音楽と、高らかな効果音と、喝采と、CG合成と、なんとかと、かんとかとで、さも「すごいことに挑戦している」「すごいことを正解している」かのように見せる

これが、演出力。

なのだけど、どうにも暴力的だという思いが、ぬぐえない。

つまり中身・・・すごいこと”であるかのように”、ではなく、”すごいこと”、であってほしいのだけど、そうでない。そうでないが、そうでないことを隠して、”そうである!””そうである!”と囃し立ててくる感じ。。。


さて一旦変わって、
テレビと同じく暴力性をもって、感受者をコントロールしたがっているような気がする、
アプリゲームの世界。

『ドラゴンクエストウォーク』を去年~今年にかけてプレイして、すっかり疲れてしまったのだった。

『ドラクエウォーク』には稼ぐべき「数値」が山ほどある。
鬼ほどある、といっていい。

それは、テレビゲームの本家「ドラクエ」では「経験値」「ゴールド」(お金)くらいだったのが、
「ジェム」「ウォークマイル」「おでかけポイント」「冒険者レベル(を上げるためのポイント)」「そのときどきのイベントでのポイント」「そのときどきのイベントでの固有集めるべきアイテム数」

とか。

つねに、行動ごとに何かが稼げて、「次のレベル」とか「お金ためてアイテム買う」とか、「ジェムでおみくじ(ガチャ)」とか、とかとか、近場の目的が目の前にぶるさげられる。

それは、やるべきことが見えている、いいゲームじゃないか?

しかしそれは、「数値」だった。

どうにも、こうにも、「数値」だった。

キラーンとか、ピカーン、とか言いながら、貯まりました! えらい! いける! ヤッタネ! と囃し立ててくるムゥード。

これからさかのぼって、ニンテンドーDSのゲーム『真・女神転生STRANGE JOURNEY』(2009年)のときも、

「今のゲームってこんな大量に”近距離目標”をぶらさげてくるのか!」

と衝撃を受けたけれど(でもこのゲームは大好き。数値以上のものを感じさせてくれるから)、
それを突き詰めていったのが、スマホゲーム、アプリゲーム、なのかもしれなかった。まあ、他のゲームは確かめてないけど。

 

それってパチンコじゃん?

 

パチンコ・・・と何が同じかと、感じるかというと、それは囃し立てられ、なのか。ともかくギャンブル性、についてではない。アイテムガチャの賭博性、射幸心をそそる云々、とは別のことで、音や、光や、(ひいては金銭や?)という空虚によって「やめられない時間」というコンテンツを作り出すムゥード。

こんなものは俺の好きだったテレビゲームじゃないんだよ、

という思いがものすごくある。それは、パチンコで、好きなゲーム、アニメの版権がしっかりと契約を結んだうえで、使われているときにも、感じる、感じるやつだ。

 

いいテレビゲームとは、

暴力的でない、感受者への、時間の使わせ方とは。 

 

それで最近やった、『リンダキューブアゲイン』(1997年)が、すばらしかったんだよね。

 

今日はおわり 

 

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