うしろめたさから生まれるつながり
『うしろめたさの人類学』 松村圭一郎著
うんうん、、
・構築主義という考え方がある。何事も最初から本質的な性質を備えているわけではなく、さまざまな作用のなかでそう構築されてきた、と考える視点だ。よく挙げられる例は、「ジェンダー」だろう。男性は生まれた時から「男らしさ」を持っているわけではない。社会の制度や習慣などによって「男らしさ」を身につけてきた。だから「男らしさ」は社会的に構築されてきた。
・贈り物というのは、与えなくてはならないものであり、受け取らなくてはならないものであり、しかもそうでありながら、もらうと危険なものなのである。それというのも、与えられる物それ自体が双方的なつながりをつくりだすからであり、このつながりは取り消すことができないからである。・・・贈与は怖い。でも、世の中のバランスを取り戻すには、おそらく、この贈与の力がいる。世界は分断されている。
・「贈与」は、他者との間に生じる思いや感情を引き受けることも意味する。それは「売買」に比べると、何かと厄介だ。
・「与えることは彼ら(エチオピアの物乞い)のためにならない」と言うかもしれない。これだって同じ正当化に過ぎない。ためになるかどうかは、そもそも与える側が決められるものではないからだ。いろんな理屈をつけて最初に生じたはずの「与えずにはいられない」という共感を抑圧している。共感とその抑圧。
・自分が彼ら(エチオピア人)よりも不当に豊かだという「うしろめたさ」がある。常に彼らからいろんなものをもらってきたという思いもある。そのうしろめたさに、できるだけ素直に従うようにしている。それは「貧しい人のために」とか、「助けたい」という気持ちからではない。あくまでも自分が彼らより安定した生活を享受できているという、圧倒的な格差への「うしろめたさ」でしかない。
・人との言葉やモノのやりとりを変えれば、感情の感じ方も、人との関係も変わる。商品交換は、感情にともしい関係をつくりだし、贈与は、感情にあふれた、でもときに面倒な親密さを生み出す。「経済」ー「感情」ー「関係」は、こうして人にモノをどう与え、受けとり、いかに交換/返礼するかという行為の連鎖からできている。愛情も、怒りも、悲しみも、自分だけのもののように思える「こころ」も他者との有形・無形のやりとりのなかで生み出される。・・・ぼくらは、人にいろんなモノを与え、与えられながら、ある関係の「かたち」をつくりだす。そして同時に、その関係/つながりをとおして、ある精神や感情を持った存在になることができる。つまり関係の束としての「社会」は、モノや行為を介した人と人との関わり合いの中で構築される。そこで取り結ばれた関係の輪が、今度は「人」をつくりだす。ぼくらが何者であるかは他者との関係のなかで決まる。
→激しく同意。私たちは、いつからか「感情にあふれた、でもときに面倒な親密さ」を避けるようになってきてしまっている。でも、人間なんてものは、「他者との関係なかで決まる」しかないのに。
・自分が依拠してきた概念すらも、さらりと乗り越える。理解したと思った地点にとどまらず、さらに新たな「ずれ」を見出していく。この姿勢こそが知性だ。
・格差を目のあたりにすると、何かしなければ気持ちがおさまらなくなる。こうして引き出された行為は、自分の「うしろめたさ」を埋めるものでしかない。結果的に高閉鎖につながるかわからないまま、行為せずにいられない。贈与は、「結果」や「効果」のためになされるわけではない。そうするしかない状況で、自分がそうしたくて、他者に投げかけられる。(エチオピアの)少年が蜂蜜や私の古着をほんとうに喜んでくれるかはわからない。「効果」があるとしたら、モースが言ったように、そこに「つながり」が生まれるだけだ。私が少年によって喚起された共感、そして、おそらく私の行為によって彼に生じた共感は、私と少年とをつなぎとめる。それが公平さへの第一歩となる。なぜなら、不均衡を覆い隠しているのが、「つながり」の欠如だからだ。「つながり」は次の行為を誘発し、「わたし」とは切り離されたようにみえる世界のなかに、小さな共感の輪をつくる。その輪が、僕らがこの世界につくりだせるスキマとしての「社会」だ。
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