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2022年6月13日 父 浜崎正治への弔辞

(父 浜崎正治の記録として 葬儀の際に読んだ弔辞) 

本日は父 浜崎正治の葬儀にお集まりいただき、誠にありがとうございます。
長男の浜崎一と申します。

父は74歳。3度目の癌の闘病中でした。

3度の癌はいずれも食道、咽頭という喉の癌でした。

肺炎を患っていたこともあり、体力も衰えていて3度目の癌治療は手術によるものではなく、抗がん剤と放射線の治療によるものになりました。
無事に治療を勤め上げ一度は自宅に戻ってくることができました。
しかし、翌日喉に痰を絡ませそれを吐き出すことができず窒息により心停止となりました。

救急の措置により、一度は蘇生したのですが6月8日帰らぬ人となりました。
父は「脳死は人の死である」という考え方でしたので、過度な延命処置はしませんでした。
病院側の配慮もあり、母は病院の個室で父を看取ることができました。

3度目の癌の治療をしなければもう2年程度生きることができたかもしれませんが、父は治療を選びました。
そのチャレンジの結果、一度は自宅に帰ることができたのですから父は病には勝ったのだと思います。

お父さんお疲れ様でした。

父はとても努力をした人でした。
大阪大学を経て、東京大学大学院からソニーの中央研究所に入り、一時期は半導体の世界的研究者の一人でした。
ソニーはその後父の研究を元にCCDという半導体素子の世界的メーカーになりました。
彼は教科書にも載っておらず、テレビドラマの主人公にはなっていませんが、日本の技術力や経済の発展に大きな貢献をした偉大な人物の一人です。

私が子供の頃の父は毎日遅くまで会社で仕事をし、土日も家に篭って研究をする人でした。
本日祭壇にお持ちしたものは父が発表した技術論文の一部です。

イギリスの雑誌に載ったものやアメリカで発表したものが自室には残っていました。

長男である私がみた浜崎正治はこのような人間で、ずっと考え事をしながらそこに居る植物のような人という印象でした。

今回父が亡くなったタイミングで父の昔の写真を見てみました。

高校、大学、大学院の頃の写真を見ると、そこにはまるで私や私の息子たちと同じようにおどけて、爽やかに微笑む父がいました。

当然ですが、父にも青春時代があり、炎のように燃えていた現役の研究者時代があったのです。

後でお時間のある時に、古いアルバムをめくっていただけると幸いです。

浜崎正治という人間の価値観にはさまざまなものがありました。
若い時からコンピュータと人間が密接に結びつく未来を予想していましたし、会社に依存しない生き方を選んできた人でした。
自由と平等を一番に掲げており、子供の私に命令らしい命令をしたこともありませんでした。

残された我々は彼のどの価値観を引き継いでいくべきか、ゆっくりと考えていこうと思います。

私には2人の息子がいますし、弟の次郎にも娘がいます。
私や弟が引き継いだ父の価値観は彼らにも引き継がれていくはずです。

今日来ていただいた皆様におかれましては父の事を悼んで来てくれた方もいれば、母のことを気にかけてきてくれたかたもいらっしゃると思います。

私の予定からすると父はもう10年は生きると思っていたのですが、幸にして父の死は浜崎家の中では順番通りのものです。

母は時を経て立ち直ると思います。
私も、弟もそうです。

皆様におかれましてもともに父 浜崎正治の死を共に悼んで頂けると嬉しく思います。
父は真面目な人でしたが、明るい人でもありました。

この葬儀をさっぱりと済ませ、次の世代、次の生活に移っていくことを望んでいると思います。

本日はお集まりいただきまして、誠にありがとうございました。


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