走る、走る、梅雨。

母の鼻歌が、Pretenderのサビを無限ループしている。あれって無限ループできる曲か?と耳をすましていると、どうやら「確かなことがあ〜」でワープし、「いや〜いやでも〜〜」に戻ってきている。サビの盛り上がりを殺せるなんて、器用なものだ。
よく聞けば、さらに「辛いけど否めない〜のさ」と端折っている。否めないんかい。諦めがいいな。別の意味で肝の座った男の歌になっている。
私はモヤモヤしながらも、今日もキッチンから流れてくる鼻歌を聞き流せずにいる。


ツイッターで見かけた無限レタスのレシピを教えたら、母がハマってしまった。
ごま油やしょうゆを一括で大さじ1。いいかげんな母でも覚えられる簡素なレシピだ。最近はそのうえに既製品のしょうが醤油をかけている。レシピなんてクソくらえだ。

レシピを教えた責任をとって、たまに私も母と並んでレタスをべりべりと剥がす手伝いをしている。手伝いの内容が小学生みたいだと言われても否めない。否めな〜いのさ〜。母の無限ループを聴きながらレタスを無限に剥がし続ける。母にこの曲を聴かせたのも私である。責任が重い。



進路はだいたい定まった。自分で決めたはずだ。なのに、どことなく覚悟が決まらない。
夏になり切れない空模様のようだ。

この心のモヤモヤの根源を探して、我々はジャングルの奥地へ旅立った。はずだった。らりぱっぱ。
ジャングルは思っていたより複雑怪奇だった。


たくさんの言い訳で身を守りながら生きている。凝り固まってカッチカチだ。
カッチカチの中身は、カブトムシのおなかよりも軟らかい。軟弱とも言える。

自分の心は言い訳の殻の中にある。
自分のからだもそこにあると思っていた。
どうやら体は大きすぎて、レタスサイズの言い訳の中には収まらないらしい。
自分の本心と向き合いたいのに、心は内、体は外だ。

しかたがないので、レタスみたいな言い訳をぺりぺりと剥がしていく。剥がしても剥がしても底が知れない。なによりレタスと違って、剥がすと痛い。どちらかといえば逆むけに似ている。
毎夜のことだ。誰にも言えない。



今日のお昼はいぶきうどんに行こう、とベランダから顔をのぞかせた母が言った。
母はお気に入りになったら頻繁に同じものを食べるタイプだ。私はその逆で、頻繁に食べたら好きなものでも飽きてしまうタイプ。
だからうっかり「このおかずめっちゃ好きやわ」なんて言ってしまったら、月に数回のペースで食卓に並ぶことになる。無限レタスも無限に食べたら飽きるのだ。母よ、おお、母よ。

好きなものとて、たまに食べるくらいがちょうどいいのだと思う。織姫と彦星だって、年イチのチャンスで満足してるんだから。たまに会うくらいがいいと思っているのだろう。
会おうと思ったらクロックスでも履いてジャブジャブ渡ればいい。けれどそうしないのは、長い長い年月を生きる星にとって、お互いに飽きちゃうともうお終いだからなんじゃないかな。彼らにとって遠距離恋愛がちょうどいいスタイルだっただけだろう。なんせ星の寿命は長い。長すぎるくらいに長い。


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星降る花、だっけか。
種を埋めてしばらく。ツルがニョキニョキ伸びるばかりで、それでも大切に母が水をやっていた花が、ようやく一輪だけ咲いた。七夕に合わせて咲いたのかもしれない。黄色とか紫とか、おとなしい花が咲くと思っていた母は、トウガラシみたいな派手な色に面食らっていたけれど、嬉しそうにしていた。


たった一輪、気まぐれに咲いてはすぐに萎んでしまう花。それを見て喜ぶ母への気持ちを、母を隣で見つめる自分自身の気持ちを、少しずつ少しずつ剥がしていって、最後に残る種のようなまっさらな自分を、はやく見つけたい。

焦りにも似た気持ちで、梅雨の後ろ髪を振り払って走っている。
夏が来る頃には、ひとつ進んでいるといい。


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