カメムシはまだ居る



今日の夕空はへんな空だった。

水色の空の下に、うすーい雲が膜みたいに張っていて、もっと下には暗い色の雲が所々浮かんでいる。
白と水色の濃淡の空は、キャンバスの紙の色をいかして塗った水彩画みたいだった。どこまでが本物の空か分からない。距離感のつかめない、へんな雲。


今日はやけにさみしかった。

ひと肌恋しいってのはこれとよく似ている。
何かをさわって、すがって、抱きしめていたいような、抱きしめられたいような、むなしい気持ちだ。

ただ、これは孤独なむなしさだなぁ、と実感していた。
今日のむなしさは、きっと毛布にくるまって温められても空炊きされるばかりのものだ。
からだの内側にからっぽを飼っているような、そんな感じだ。

からっぽを、どう、どう、となぐさめる。

正体のないソイツは、むずむずと身体をよじって、私の心の中を這いずり回り、いろんなものを引っくり返す。
そのせいで散らばった感情や思い出の後片付けにテンヤワンヤだ。
まいった。今日はベランダで教科書を読み込む予定だったのに。


空しいも、空っぽも、空だ。
このさみしさも、うっかり空を見上げて、動き出したくなっちゃったんだろうなぁ。
「しょうがないヤツめ。」膝の上にいたら、頭をコツンとやってやりたかった。


「さみしい」のと「さみしい気持ちである」のは違う。
前者のは、友達からラインが来たら満足して帰っていく。ようは寂しくなくなればいい。
後者はただの状態異常だから厄介だ。そして対処のしようがない。な〜んとなく、寂しい。わがままな感情だ。つける薬もない。


ベランダ生活のために買った、アウトドア用の折りたたみイスに座って、私はまた空を眺める。持て余した脚を折りたたんで、三角座りみたいになりながら、教科書に目を滑らせる。滑らせたくて滑らせているんじゃない。滑るのだ。だ〜めだこりゃ。

「なぁ〜、」と私は台所で晩ご飯を作っている母を呼ぶ。発情期の猫の鳴き声じゃない。大阪弁の「ねぇ」だ。

なぁ〜、と呼んでも、さみしさが埋まるわけじゃない。ただ声でも出していないと、息が詰まってしまいそうだった。



しばらくして、ご飯を洗い終えた母が帰ってきた。間隔をあけて並べたもう一つのイスに腰かけ、読みかけの本を開く。

私は母の横顔を見て、ベランダの手すりにずっと止まっているカメムシを見て、また母を見た。

「なぁ〜、なんか、さみしい気持ちがする。」
拗ねた子供みたいな声になってしまった。母はけらけらと笑う。
「ちゃうねん、寂しいわけやないねん。さみしい気持ちなだけやねん。わかる?この違い。」
「わかるよぉ」と言って、母は本を閉じて席を立った。網戸をからからと開き、部屋に戻る。それから半分残ったトッポの箱を持ってきた。

「これでいい?」
「ぴったり〜〜。」

母がトッポの袋を開ける。側面に切れ込みがあるのに、母は毎回気づかずに上を引きやぶる。

「あっ、折れてる」
一本目のトッポは、三分の二くらいのところで力尽きていた。「ッポやな」と私。
母がつまんだトッポはもはや「t」だった。ちっちぇえ〜、と二人で笑った。

次こそはトッポ、と念じながら交互に食べるトッポは、ッポだろうと、tだろうと、甘くて最後までチョコたっぷりだった。


ラスト一本を私にゆずった母は、また本を開きながら「さみしいのは?」と訊いた。
うーん、と惜しみながらトッポの端をかじり、空に視線を戻す。

雲は流れて、空は違う顔になっていた。もう普通の空だった。


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